NBAキャリア (フィラデルフィア・76ers 1976-1987)
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「ジュリアス・アービング」の記事における「NBAキャリア (フィラデルフィア・76ers 1976-1987)」の解説
1975-76シーズン終了後、ついにABAはNBAに吸収されるという形で消滅。ABAの多くのチームが解散の憂き目に遭う中、ニューヨーク・ネッツはABAで生き残った4つのチームの1つとしてNBAに加盟したが、彼らは320万ドルの加盟料を支払わされ、さらにネッツは本拠地を共にするニューヨーク・ニックスにも480万ドルの支払いを科されたため、一気に財政難に陥いり、アービングを手放さざるをえなくなった。アービングは現金300万ドルとの交換で、フィラデルフィア・76ersへと移籍した。絶対的なエースを失った上に財政難と二重苦を背負わされたネッツは、以後低迷脱却に多くの時間を要する事になる。 アービングのNBA入り、76ers移籍は大きな話題を呼び、人々の間ではNBAがABAを吸収したのはアービングただ一人が欲しかったからだという噂が広まったほどだった。迎えたNBAでの1976‐77シーズン、アービングは環境の違うリーグ、チームへの適応を優先させたプレイに徹したため、成績は平均21.6得点8.5リバウンドとプロ入り後最低の数字に終わった。しかしこの年のオールスターでは30得点12リバウンドをあげて見事にオールスターMVPを獲得。人々は事前の触れ込みが決して誇大ではないことを納得した。アービングに、ABA出身でアービングと並ぶ名スモールフォワードのジョージ・マクギニス、ガードのワールド.B.フリーとリーグでも屈指のタレントを誇る76ersはこのシーズン50勝32敗をあげ、プレーオフではボストン・セルティックス、ヒューストン・ロケッツを破り、アービング加入1年目にして早くもNBAファイナルに進出する。ファイナルではビル・ウォルトン擁するポートランド・トレイルブレイザーズに最初の2試合を連勝するが、その後4連敗を喫してしまい、NBA1年目にしての優勝はならなかった。シーズンは悔しい幕切れとなったが、より市場として発達しているNBAでのプレイはアービングの名声を益々高め、アービングは自分の名前を冠したバスケットシューズのモデルを発売した初めてのバスケットボール選手となり、テレビコマーシャルや映画にも出演するなど、商業的にも成功を収めた。76ersにもアービング獲得効果はファイナル進出のみならず、観客動員数の増大という、球団にとっては特に喜ばしい形で表れた。前年、ホームアリーナの総観客動員数は509,699人だったが、このシーズンは632,949人と25%近くの伸びを見せている。76ersはアービング中心のチームを造るためにチームの再編を始め、1977-78シーズン途中からビリー・カニンガムが新ヘッドコーチに抜擢され、翌1978-79シーズンには、ポジションが重なるジョージ・マクギニスを放出。この間チーム成績は横ばい状態が続くが、チームの戦力は着実に増していき、またアービングもNBA2年目の1977-78シーズンにはオールNBA1stチーム入りを果たし、名実共にリーグ最高峰の選手としての地位を固めた。
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