御匣殿 (西園寺公顕女)とは? わかりやすく解説

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御匣殿 (西園寺公顕女)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 04:52 UTC 版)

御匣殿(みくしげどの)は、鎌倉時代後期の高級官僚。右大臣西園寺公顕の娘。叔母で後醍醐天皇中宮である西園寺禧子の腹心の一人で、女房三役の一つ中宮御匣殿(中宮らの装束の裁縫などを司る長官)を務めた。禧子崩御後の女院号が後京極院であるため、御匣殿も後世には後京極院御匣(ごきょうごくいん の みくしげ)とも呼ばれる[1]。また、後醍醐天皇第一皇子の尊良親王の妃で、男子(一説に守永親王)をもうけた。元弘の乱1331年 - 1333年)以前に死去。


注釈

  1. ^ 中世日本においては、宮廷人にとっての一般知識・古典的教養である『源氏物語』の話は、宮廷における恋愛観にも影響力があった[2]。たとえば、後深草院二条が書いたとされる日記文学『とはずがたり』(14世紀初頭)のうち艶麗な宮廷恋愛模様を描いた前半部分には、展開と和歌の双方で『源氏物語』からの強い影響が見られる[2]。また、日本史研究者の中井裕子は、論文ではなく個人のウェブサイト上のくだけた文脈ではあるが、尊良親王の父である尊治親王(後の後醍醐天皇)が有力公家の娘である西園寺禧子西園寺家邸宅から盗み出した事件について、政治的動機による婚姻ではなく、単に『源氏物語』の熱狂的な愛好家だった尊治が光源氏紫の上の物語を演じたかったのではないか、という個人的動機に求める説を提起している[3]
  2. ^ 史実としては、尊良親王が皇太子位を巡る後継者戦に出て敗れたのは、文保2年(1318年)の邦良親王立太子の時ではなく、嘉暦元年(1326年)の量仁親王(のちの光厳天皇)らとの争いの時[15]
  3. ^ 歴史上では、尊良は御匣殿以外にも、母方の叔母とも関係を持っていたが(『増鏡』「むら時雨」)[5]、御匣殿との交際とどちらが先なのかは不明。
  4. ^ 実際には、御匣殿は、このとき数え21歳弱の尊良とほぼ同じか若干年上だったと思われる(#生涯)。
  5. ^ 「徳大寺左大将」が史実の徳大寺公清(このとき右中将で、中宮権大夫として御匣殿の同僚でもあった)とすれば、この時点で数え15歳ほどで、御匣殿・尊良よりも若い。
  6. ^ なお、尊良親王は容姿の端麗さと和歌の才能から、『太平記』では終始、文弱の印象に描かれ、鎌倉幕府との戦い元弘の乱でも、流刑先の土佐国高知県)に留まったままでいる[26]。しかし、史実の尊良は、元弘の乱の最中に武人としても急激に成長し、流刑先の土佐から脱走し、九州に渡海して倒幕軍の旗頭となり、鎌倉幕府の九州方面軍である鎮西探題の打倒に貢献したと推測されるほどの勇将になっている[28]

出典

  1. ^ a b c d e 藤原 1903, vol. 6, p. 46.
  2. ^ a b * 鈴木, 儀一「「とはずがたり」二条の教養 : 引歌をめぐって」『駒沢国文』第6巻、駒沢大学国文学会、1968年、 10–25。
  3. ^ 中井裕子 (2003年5月3日). “A LIFE OF 後醍醐天皇: 3. 皇太子時代”. きゅーchanのほーむぺーじ. 2020年8月13日閲覧。
  4. ^ 『大日本史料』6編1冊136–137頁.
  5. ^ a b c d e 井上 1983, pp. 231–234.
  6. ^ 長谷川 1996, pp. 451–452.
  7. ^ 鈴木 2007, pp. 46–48.
  8. ^ 鈴木 2007, pp. 57–58.
  9. ^ 鈴木 2007, pp. 60–61.
  10. ^ 森 2007, pp. 245–246.
  11. ^ 井上 1983, pp. 156–161.
  12. ^ 井上 1983, pp. 163, 262.
  13. ^ 森 2007, pp. 53–55, 226–229.
  14. ^ a b c 博文館編輯局 1913, pp. 548–565.
  15. ^ a b 森 2000, §3.1.3 東宮ポスト争奪戦と量仁の立太子.
  16. ^ 長谷川 1996, p. 456.
  17. ^ a b 長谷川 1996, p. 452.
  18. ^ a b c d 森 2007, pp. 98–99.
  19. ^ a b 花園天皇 1986, p. 316.
  20. ^ a b 森 2007, pp. 45–46.
  21. ^ 『史料綜覧』6編907冊142頁.
  22. ^ 長谷川 1996, p. 450.
  23. ^ 長谷川 1996, pp. 450–478.
  24. ^ a b c d e f g h i j 長谷川 1996, pp. 450–454.
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 長谷川 1996, pp. 453–460.
  26. ^ a b 長谷川 1996, pp. 460–478.
  27. ^ 長谷川 1996, pp. 460–477.
  28. ^ 森 2007, pp. 53–55.
  29. ^ a b 長谷川 1996, pp. 477–478.
  30. ^ 金崎宮 -かねがさきぐう- 「歴史と人物」尊良親王と金ヶ崎”. 金崎宮. 金崎宮 (2005年). 2020年6月22日閲覧。
  31. ^ 万代昌子 (2019年4月5日). “金崎宮は「恋の宮」♪ 難関突破も願えるパワースポット?そのご利益とは【敦賀市”. Dearふくい. 2020年6月22日閲覧。
  32. ^ a b c 山本 2017, pp. 35–36.
  33. ^ 山本 2017, p. 35.
  34. ^ 山本 2017, pp. 36–38.
  35. ^ 山本 2017, p. 48.


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