後期作品群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/04 00:16 UTC 版)
「ウィリアム・スタンデール・ベネット」の記事における「後期作品群」の解説
1850年代の終盤になって、ベネットは作曲を再開した。彼の後期作品にはピアッティのために書かれた「ピアノとチェロのための二重奏曲 Op.32」、1858年のリーズ市民ホールこけら落としのためのカンタータ「五月の女王 The May Queen」、「交響曲ト短調 Op.43」、1867年のバーミンガム3年祭のためのオラトリオ「サマリアの女 The Woman of Samaria Op.44」、ピアノソナタ Op.46などがある。ハドウはベネットの後期作品についてこう述べている。「1858年になってやっと彼は『五月の女王』という大規模な作品を作ったわけであるが、その時、既に変化していた音楽の語法に彼が付いていけていないことが明らかになった。(中略)彼は保守色が強すぎて時代の流れに合わせられなかったのだ。(中略)彼は生涯、保守を捨てなかったのだ。『ト短調交響曲』、『サマリアの女』、表題的ソナタ『オルレアンの乙女 Maid of Orleans』は40年代に既に書かれていたのかもしれない。それらは古い方法論の生き残り、つまり伝統の発展ではなく焼き直しだったのである。」 音楽学者のニコラス・テンパーレイ(Nicholas Temperley)はこう記している。 1855年以降、名声があった彼は特別な依頼を受けるなどして重要度の高い、しっかりした内容の作品を相当数作曲したわけであるが、彼が以前のような自信を取り戻すには遅すぎた。幼い頃に両親を亡くしたため、ベネットは安らぎと励ましを人並み以上に求めたのかもしれない。当時のイングランドは自国の作曲家にこれらを提供できる環境ではなかったのだ。ベネットは、一時はドイツの音楽サークルにそれを見出した。しかし、ドイツで指導層となり生活の糧を得られる機会が巡ってきた時には、彼にはそれを掴むだけの大胆さが足りなかったのだった。 彼は最後の数年間、夏季休暇をイーストボーンの海岸リゾートで過ごし、後期作品の大半はそこで作曲した。彼はロンドンでの教育活動は続けており、またロンドンや他の各地で折に触れてコンサートを開いていた。彼は1875年、セント・ジョーンズ・ウッドの自宅にて58歳で息を引き取った。遺体はウェストミンスター寺院に葬られた
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