引田城落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 22:41 UTC 版)
その頃、阿波白地で兵を整えた元親は20,000の軍勢を率いて讃岐へ侵攻。寒川郡田面山に陣を敷き、虎丸城攻めを開始する。同月21日、秀久は長宗我部軍の香川信景率いる讃岐勢及び、大西頼包率いる阿波勢の計5000が引田に向け進軍中であるとの報を受け、奇襲をかけるため手勢を3つの隊に分け仙石勘解由、仙石覚右衛門、森権平をそれぞれ将とし、入野山麗に伏兵をおいた。秀久の読みは的中し、入野原にさしかかった阿讃勢に対し鉄砲を浴びせ、奇襲を受けた阿讃勢は一時退却をせざるを得なくなった。秀久本隊も追撃をかけ優勢に戦いを進めていたかに見えたが、数に勝る阿讃勢はすぐさま隊を立て直し次第に戦を優位に進めるようになった。阿讃勢が会戦しているとの報を受けた元親は配下の桑名親光、中島重勝隊らを救援に向かわせた。土佐勢の増援が駆けつけたことで長宗我部勢が仙石勢を完全に圧倒するようになり、完全に隊を乱した仙石勢は多くの将兵を失いながら引田城への退却を余儀なくされた。この戦いで仙石勘解由は前田平兵衛に討たれ、殿をしていた森権平は稲吉新蔵人に討たれてしまう。また、混乱の最中に秀久は幟を取られる失態を見せたという逸話もある。一方の長宗我部勢は中島重勝、桑名藤十郎等が討死した。 長宗我部勢はそのまま引田へ進撃、布陣した。翌日秀久の籠もる引田城を取り囲み総攻撃をかけたが、既に戦意を失った仙石勢は抵抗らしい抵抗を出来ずに城を逃げ出さざるを得なかった。
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