建造経緯および就役後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 05:28 UTC 版)
「朝霜 (駆逐艦)」の記事における「建造経緯および就役後」の解説
1942年度(マル急計画)仮称第344号艦として藤永田造船所で建造。1943年(昭和18年)5月25日、姉妹艦(沖波、岸波)、海防艦の御蔵や平戸、標的艦波勝等と共に命名された。3隻(沖波、岸波、朝霜)は同25日付で夕雲型駆逐艦に登録された。11月1日、日本海軍は駆逐艦如月・朝霧・夕霧艦長等を歴任した前川二三郎少佐を、臨時朝霜艤装員長に任命した。11月2日、藤永田造船所に朝霜艤装員事務所を開設。本艦は同年11月27日に竣工し、朝霜艤装員事務所も撤去された。同日付で正式に横須賀鎮守府籍となり、前川艤装員長も朝霜駆逐艦長(初代)となった。 竣工と共に訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入される。瀬戸内海に回航された「朝霜」は、訓練部隊(龍田、浜波〈12月15日付で第32驅逐隊編入〉、岸波〈12月3日編入〉、沖波《12月10日編入》、朝霜〈11月28日編入〉)に所属。第十一水雷戦隊所属艦および臨時所属艦と訓練をおこなった。 12月29日、燧灘で十一水戦に春雨(第27駆逐隊)が合同した。駆逐艦4隻(時雨、春雨、沖波、朝霜)は戦艦山城を護衛して呉を出発した、31日、横須賀回航部隊は横須賀に到着した。 1944年(昭和19年)1月4日、沖波と朝霜は横須賀を出発、内海西部に戻った。以降、第十一水雷戦隊(龍田、朝霜、沖波、岸波)は臨時編入艦と共に内海西部で訓練に従事する。1月27日付で杉原輿四郎少佐(海軍兵学校第57期)は朝霜駆逐艦長(二代目)に任命された。2月10日、朝霜(藤永田造船所建造艦)、岸波(浦賀船渠建造艦)、沖波(舞鶴海軍工廠建造艦)は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将:旗艦能代)隷下の第31駆逐隊に編入された。第31駆逐隊は前年11月下旬のセント・ジョージ岬沖海戦で31駆司令香川清登大佐および構成艦大波と巻波を喪失して夕雲型4番艦長波(藤永田造船所、昭和17年6月30日竣工)1隻となっており、夕雲型4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)で再編された。第31駆逐隊司令福岡徳治郎大佐(海兵48期、前職第19駆逐隊司令)も朝霜・沖波・岸波編入の直前に任命されたばかりである。
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