建武の新政とこれに離反した足利氏にそれぞれ合流した南部氏とは? わかりやすく解説

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建武の新政とこれに離反した足利氏にそれぞれ合流した南部氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 23:31 UTC 版)

南部氏」の記事における「建武の新政とこれに離反した足利氏にそれぞれ合流した南部氏」の解説

波木井南部氏奥州勤王勢力甲斐本拠奥州糠部鎮守府将軍北畠顕家北畠顕信従い活躍した鎌倉幕府崩壊して後醍醐天皇による「建武の新政」が始まると、元弘3年1334年8月奥州鎮撫目的とした義良親王(後の後村上天皇)を奉じ北畠顕家従い南部師行伊達行朝結城宗広葛西貞清と共に奥羽下向する。 元弘1335年4年7月、京から下向北条時行主導した中先代の乱8月平定し足利高氏鎌倉に入ると、護良親王はすでに足利直義殺害されていた。高氏は自ら征夷大将軍名乗り建武政権から与えられ新田氏所領を乱の平定恩賞にするなどして、新田氏足利氏対立が始まる。 建武2年1335年11月8日宣旨受けた義貞は節度使として刀を賜るとその軍勢足利尊氏討伐に京を発っした。南部氏一族分裂はさらに続き11月矢作川の戦いから伊勢南部氏が従う直義軍は義重が参陣する尊良親王新田義貞尊氏追討軍を迎え撃った敗れた賊軍となることを恐れていた尊氏箱根・竹ノ下の戦いへの出陣追討軍を破った足利氏軍勢は京に向かうが、これを聞いた後醍醐帝供奉の者と比叡山入り奥州からの軍勢待った山崎の合戦などで再び足利勢を迎えうった新田氏らの軍勢を破ると、尊氏足利氏軍勢京都入った

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