建武の新政とこれに離反した足利氏にそれぞれ合流した南部氏
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波木井南部氏の奥州の勤王勢力は甲斐を本拠に奥州の糠部で鎮守府将軍の北畠顕家、北畠顕信に従い活躍した。鎌倉幕府が崩壊して後醍醐天皇による「建武の新政」が始まると、元弘3年(1334年)8月、奥州鎮撫を目的とした義良親王(後の後村上天皇)を奉じた北畠顕家に従い、南部師行は伊達行朝・結城宗広・葛西貞清らと共に奥羽に下向する。 元弘(1335年)4年7月、京から下向、北条時行が主導した中先代の乱を8月に平定した足利高氏が鎌倉に入ると、護良親王はすでに足利直義に殺害されていた。高氏は自ら征夷大将軍を名乗り、建武政権から与えられた新田氏の所領を乱の平定の恩賞にするなどして、新田氏と足利氏の対立が始まる。 建武2年(1335年)11月8日、宣旨を受けた義貞は節度使として刀を賜るとその軍勢は足利尊氏の討伐に京を発っした。南部氏一族の分裂はさらに続き、11月の矢作川の戦いから伊勢南部氏が従う直義軍は義重が参陣する尊良親王・新田義貞の尊氏追討軍を迎え撃ったが敗れた。賊軍となることを恐れていた尊氏の箱根・竹ノ下の戦いへの出陣で追討軍を破った足利氏の軍勢は京に向かうが、これを聞いた後醍醐帝は供奉の者と比叡山に入り、奥州からの軍勢を待った。山崎の合戦などで再び足利勢を迎えうった新田氏らの軍勢を破ると、尊氏ら足利氏の軍勢は京都に入った。
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