幼年期の混乱とは? わかりやすく解説

幼年期の混乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:15 UTC 版)

ハイメ1世 (アラゴン王)」の記事における「幼年期の混乱」の解説

父はアラゴン王ペドロ2世、母はモンペリエ領主相続人マリア・デ・モンペリエで、この父母の間にただ1人生まれた子供であったハイメプロヴァンスを巡る権力争い渦中幼年期過ごしたフランス南部貴族たちと主従関係結んでいた父がキリスト教異端カタリ派フランス貴族シモン・ド・モンフォールとの間の戦争巻き込まれことがきっかけで、アルビジョア十字軍懐柔ようとした父の方針で、1211年ハイメモンフォールの娘アミシーの婚約者事実上人質)として差し出された。 モンフォールの元で教育受けさせるためにハイメ彼に委ねられカルカソンヌ留め置かれたが、父は十字軍との対決避けられなくなり1213年9月12日ミュレ戦いで戦死した。母も既に亡くなっていたが、遺言ハイメ保護ローマ教皇インノケンティウス3世託しアラゴンカタルーニャ遺臣たちもハイメ身柄引き渡しインノケンティウス3世訴え聞き入れた教皇勧告モンフォールハイメを引き渡させた。こうして1214年4月ハイメフランスからアラゴン戻ったハイメ1世アラゴンモンソン送られ次いでテンプル騎士団元に預けられ帝王学軍事学乗馬などを学び成長した不在の間は大叔父のルサリョー伯サンチョ英語版)とその息子従叔父のヌーニョ・サンチェス(英語版)が摂政となったが、王国1217年6月騎士団貴族が幼い王をサラゴサに連れて行くまで混乱続いた同年暮れハイメ1世は再びモンソン行き、そこで集まった重臣たちとルサリョー伯を政治から排除することに合意、翌1218年4月モンソン戻ったが、貴族が二派に分かれて内乱勃発国王他人に言われるがまま戦場へ行くしかなかった。両派に翻弄されながら攻城戦目の当たりにする一方1220年には味方の裏切りに遭い退却する苦い敗北経験している。 翌1221年2月6日カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘レオノール結婚、相変わらず周囲言うことを聞くしかない状況振り回され一方派閥擁立されてもう一方排除駆り出されたかと思えば、再び裏切られサラゴサ監禁生活を送る羽目になり(1224年)、解放される監禁仕組んだ貴族たちから賠償金請求される屈辱味わったこの後貴族不服従と反抗悩まされ1225年8月から9月バランシヤ王国バレンシア王国)のペニスコラ包囲したが、ほとんどの大貴族協力得られ包囲断念、翌1226年監禁実行した貴族1人ペドロ・アオネースを殺害すると、彼と組んだ別の貴族叔父のモンテアラゴン大修道院フェルナンドまでもがアラゴン大部分都市結託して反乱を起こすなど、たびたび苦難遭遇して反乱軍から逃げ回りながら鎮圧する日々送った最終的に反乱貴族和睦し内乱終結させたのは1227年である。 この間1225年頃に王妃レオノール別れ12月7日離別文書署名4年後の1229年4月29日教皇グレゴリウス9世から婚姻の無効宣言下され離婚した。それから6年後の1235年教皇仲介ハンガリー王アンドラーシュ2世の娘ビオランテ再婚した

※この「幼年期の混乱」の解説は、「ハイメ1世 (アラゴン王)」の解説の一部です。
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