幼少期と印可まで
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天保10年4月3日、肥前国東松浦郡十人町(現在の佐賀県唐津市十人町)にて、唐津藩士塩田壽兵衛惟和と、同藩牧山氏の二女多喜子との子として生まれる。幼名は慶助。通称は孝次郎であった。 7歳の時に母・多喜子が他界。その中陰に訪れた唐津藩主小笠原家の菩提寺、近松寺の陽溟和尚の勧めで近松寺に出入りするようになり仏道を志願。11歳で平戸雄香寺の麗宗全澤(れいしゅう ぜんたく)の元で出家。全忠の法名を得る。鄧州は18歳の頃まで麗宗の元で修行を積み、各種仏典や四書五経、句双紙、四部録などを就学する。その後、山城国綴喜郡八幡(京都府八幡市)の円福寺に入山、堂頭の石應宗眠(せきおう そうみん)、次いで蘇山玄喬(そざん げんきょう)の師事を積みながら諸国を行脚。豊後国宇佐(大分県宇佐市)の永福寺では、天下随一の過酷な師家として、「阿波の鬼文静」の異名で呼ばれた懶翁文静(らいおう ぶんじょう)の元で修行をしている。 23歳の頃に蘇山が寺を出たのを契機に鄧州も下山。久留米梅林寺にて羅山元磨(らざん げんま)の門を叩いた。27歳(あるいは29歳)の時に羅山の許しが出て印可を得る。『南天棒禅話』ではその時、羅山は南宋の禅僧・虚堂智愚が悟りを妨げる10の心の病を示した「十病論」の中から、「第七の病は 一師一友の処にあり」 という教えを諭し、鄧州に諸国遍参の旅に出ることを命ずる。出立にあたって、法戦は真剣勝負でなくては役に立たぬから、これは何か一つ武器を持つに限ると阿蘇山中で見つけた長さ6尺5寸、太さ一握りに余る南天の木を削り、「臨機不譲師」と刻んで己の竹篦としたとしている。以上は大正4年に刊行された『南天棒禅話』にある南天棒獲得のくだりだが、6年後の大正10年に口述した自伝、『南天棒行脚録』では南天棒を得たエピソードは行脚開始直後ではなく、もう少し後の話として語られている。 『南天棒行脚録』では円福寺まで初めての行脚に出てから、南天棒を得る30代半ばの頃までに、石應から懶翁、羅山と東海道から九州までおよそ24家の師家の元で修行をしている。
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