幼少期と印可までとは? わかりやすく解説

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幼少期と印可まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:10 UTC 版)

中原鄧州」の記事における「幼少期と印可まで」の解説

天保10年4月3日肥前国東松浦郡十人町現在の佐賀県唐津市十人町)にて、唐津藩塩田兵衛惟和と、同藩牧山氏の二女多喜子との子として生まれる。幼名は慶助。通称孝次郎であった7歳時に母・多喜子が他界。その中陰訪れた唐津藩小笠原家菩提寺近松寺の陽溟和尚勧め近松寺出入りするようになり仏道志願11歳平戸雄香寺の麗宗全澤(れいしゅう ぜんたく)の元で出家。全忠の法名を得る。鄧州18歳の頃まで麗宗の元で修行積み各種仏典四書五経句双紙四部録などを就学するその後山城国綴喜郡八幡京都府八幡市)の円福寺入山堂頭石應宗眠(せきおう そうみん)、次いで蘇山玄喬そざん げんきょう)の師事積みながら諸国行脚豊後国宇佐大分県宇佐市)の永福寺では、天下随一過酷な師家として、「阿波の鬼文静」の異名呼ばれた懶翁文静(らいおう ぶんじょう)の元で修行をしている。 23歳の頃に山が寺を出たのを契機鄧州下山久留米梅林寺にて羅山元磨(らざん げんま)の門を叩いた27歳(あるいは29歳)の時に羅山許し出て印可を得る。『南天禅話』ではその時羅山南宋禅僧虚堂智愚悟り妨げ10心の病示した「十病論」の中から、「第七の病は 一師一友の処にあり」 という教え諭し鄧州諸国遍参の旅に出ることを命ずる。出立にあたって、法戦は真剣勝負なくては役に立たぬから、これは何か一つ武器を持つに限ると阿蘇山中で見つけた長さ6尺5寸、太さ一握りに余る南天の木削り、「臨機不譲師」と刻んで己の竹篦としたとしている。以上は大正4年刊行された『南天禅話』にある南天獲得のくだりだが、6年後の大正10年口述した自伝、『南天行脚録』では南天棒を得たエピソード行脚開始直後ではなくもう少し後の話として語られている。 『南天行脚録』では円福寺まで初めての行脚出てから、南天棒を得る30代半ばの頃までに、石應から懶翁、羅山東海道から九州までおよそ24家の師家の元で修行をしている。

※この「幼少期と印可まで」の解説は、「中原鄧州」の解説の一部です。
「幼少期と印可まで」を含む「中原鄧州」の記事については、「中原鄧州」の概要を参照ください。

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