帝国の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 23:04 UTC 版)
スペイン継承戦争が始まって主戦場はネーデルラント連邦共和国(オランダ)・イタリア・ドイツに絞られ、ネーデルラント戦線はイングランドからオランダに渡ったマールバラ公が1702年から1703年にかけてマース川付近でフランス軍を牽制しつつ占領地域を解放していった。1701年に勃発した北イタリア戦線もオーストリア軍の司令官プリンツ・オイゲンが1702年8月15日にヴァンドーム公率いるフランス軍にルッザーラの戦いで勝利、イタリア戦線を停滞させた。 ところが、ドイツでは危機が迫っていた。1701年2月、バイエルン選帝侯で南ネーデルラント(ベルギー)総督を兼ねていたマクシミリアン2世がフランス軍の南ネーデルラント駐留を認め、北のオランダを脅かした。のみならず、1702年3月に神聖ローマ皇帝の戴冠を狙ってフランスと同盟を結び、自らもドナウ川流域のウルムを9月8日に占拠、ライン川左岸のストラスブールに駐屯していたフランス軍も呼応して10月14日に南端でヴィラール公が帝国軍の将軍・バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムを撃破した(フリートリンゲンの戦い)。 翌1703年にはタラール伯がルートヴィヒ・ヴィルヘルムの帝国軍を釘付けにしている隙を突いてヴィラールがライン川を渡り、5月9日にドナウ河畔のリートリンゲンでバイエルン軍と合流、帝国中央部に一大勢力を形成した。同年にはハンガリーでラーコーツィ・フェレンツ2世がフランスの援助でハプスブルク家に反乱を起こし(ラーコーツィの独立戦争)、オーストリアの首都ウィーンは東西に脅威を抱える形となった。 さらに9月20日、ヘヒシュテットの戦いで帝国軍がフランス軍に敗北、直後にアウクスブルクがフランス・バイエルン連合軍の前に陥落、ライン川に残ったタラールが9月7日にブライザハを陥落させ、11月15日にシュパイアーバハの戦いで帝国軍に勝利して17日にランダウも陥とし、翌1704年1月にバイエルン軍がパッサウを奪いライン・ドナウ流域を占領するなど情勢は悪化、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は1703年6月にイタリアからウィーンに移ったプリンツ・オイゲンを軍事総裁に任命、合わせてイングランドに戻ったマールバラ公に援軍を要請する使者を派遣した。レオポルト1世の命令を受けた駐英大使ヴラティスラフ伯爵も政府に援軍要請を求めていた。 マールバラ公は大陸遠征を承諾、4月19日にイングランドを出港して21日にハーグに到着、5月16日にイングランド・オランダ・帝国諸侯の同盟軍を率いてマーストリヒトを出発した。
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