左翼運動から憲法史研究へ
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「鈴木安蔵」の記事における「左翼運動から憲法史研究へ」の解説
福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)生まれ。相馬中学、二高を経て、京都帝国大学哲学科に入学。文学部哲学科に入学したものの、河上肇の影響を受け経済学部に転じる。1926年(大正15年)京都学連事件で検挙され、この事件が治安維持法違反第1号となり大学を自主退学、豊多摩刑務所に2年間服役した。出獄後は吉野作造(明治文化研究会を結成し『明治文化全集』を編集)の影響を受け、マルクス主義の立場から大日本帝国憲法の制定史を研究、1933年(昭和8年)、著書『憲法の歴史的研究』として刊行したが「唯物史観的」として発禁処分を受け学界からは完全にパージされてしまった。 しかしこの事件をきっかけに、吉野の死後明治文化研究会の会長に就任していた尾佐竹猛の知遇を受け、彼の慫慂により会の事務局格として活躍、1937年にはやはり尾佐竹の推薦で衆議院憲政史編纂委員に就任した。これ以後彼は、戦前期において実に20作以上に上る著作を発表し、また研究活動の過程で明治期の民権運動家による私擬憲法(憲法案)を発掘したことは戦後の活動につながることになった。
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