川越鉄道・入間馬車鉄道の建設とは? わかりやすく解説

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川越鉄道・入間馬車鉄道の建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 19:26 UTC 版)

清水宗徳 (政治家)」の記事における「川越鉄道・入間馬車鉄道の建設」の解説

この頃に宗徳が取り組んだのが、入間郡地域への鉄道の建設であった当時入間郡鉄道空白地帯で、生糸織物製茶などのさまざまな地場産業があり、特に川越物流中心となっていながら、そこに集まった物産東京方面輸送する手段旧態依然馬車荷車によっていた。 これを憂えた宗徳は、「地域国家発展には交通機関輸送機関整備不可欠である」との信念の許、甲武鉄道現在の中央本線国分寺駅から所沢町入間川町などを経て川越町に至る鉄道川越鉄道」の計画創立委員として参加途中紆余曲折経て1895年3月21日全線開通させるに至る。 また南北にしか走っていない川越鉄道恩恵周辺地域にも広めるため、地元の上広瀬ほど近い川越鉄道入間川駅現在の狭山市駅)から水富村元加治村精明村経て飯能町に至る馬車鉄道計画し1894年特許取得している。しかし工事駆け出し遅く当初工事入間川駅から市街地へ至る道路開設道路拡張など一部に留まった。 馬車鉄道建設工事滞らせたのは、同時に北海道開拓行っていたためであった折から国の政策によって広く推奨されていた北海道開拓乗った宗徳は、1892年に自ら北海道渡り北海道庁から紹介され空知郡奈井江村現在の奈井江町)の山林入植決定次男一三25人を入植させ、1893年には北海道埼玉殖民協会創設しさらなる入植者募集していた。 しかし入植者思うように集まらず、そのうち並行して行っていた馬車鉄道強力なライバル出現、宗徳の事業主軸はこちらに向かった電気動力化などで対抗の後、ライバル会社自滅したため、馬車鉄道予定通り建設されることになる。1899年から翌1900年にかけて「入間馬車鉄道」が設立され、宗徳は有償特許など敷設必要な権利一切譲渡した開業は翌1901年5月10日であったその後しばらく宗徳は馬車鉄道から離れていたが、開業翌年1902年8月入間銀行頭取であった入間馬車鉄道初代社長増田忠順銀行の金を建設資金流用していたことが発覚同年9月2日増田経営陣総辞職することになり、代わりに宗徳が第2代社長として選出されることになった

※この「川越鉄道・入間馬車鉄道の建設」の解説は、「清水宗徳 (政治家)」の解説の一部です。
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