川越鉄道・入間馬車鉄道の建設
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「清水宗徳 (政治家)」の記事における「川越鉄道・入間馬車鉄道の建設」の解説
この頃に宗徳が取り組んだのが、入間郡地域への鉄道の建設であった。当時の入間郡は鉄道空白地帯で、生糸・織物・製茶などのさまざまな地場産業があり、特に川越は物流の中心となっていながら、そこに集まった物産を東京方面へ輸送する手段は旧態依然の馬車や荷車によっていた。 これを憂えた宗徳は、「地域や国家の発展には交通機関・輸送機関の整備が不可欠である」との信念の許、甲武鉄道(現在の中央本線)国分寺駅から所沢町・入間川町などを経て川越町に至る鉄道「川越鉄道」の計画に創立委員として参加。途中紆余曲折を経て、1895年3月21日に全線を開通させるに至る。 また南北にしか走っていない川越鉄道の恩恵を周辺地域にも広めるため、地元の上広瀬にほど近い川越鉄道入間川駅(現在の狭山市駅)から水富村・元加治村・精明村を経て飯能町に至る馬車鉄道を計画し、1894年に特許を取得している。しかし工事の駆け出しは遅く、当初の工事は入間川駅から市街地へ至る道路の開設や道路拡張など一部に留まった。 馬車鉄道の建設工事を滞らせたのは、同時に北海道開拓を行っていたためであった。折から国の政策によって広く推奨されていた北海道開拓に乗った宗徳は、1892年に自ら北海道に渡り、北海道庁から紹介された空知郡奈井江村(現在の奈井江町)の山林に入植を決定。次男の一三ら25人を入植させ、1893年には北海道埼玉殖民協会を創設してさらなる入植者を募集していた。 しかし入植者は思うように集まらず、そのうちに並行して行っていた馬車鉄道に強力なライバルが出現、宗徳の事業の主軸はこちらに向かった。電気動力化などで対抗の後、ライバル会社が自滅したため、馬車鉄道は予定通り建設されることになる。1899年から翌1900年にかけて「入間馬車鉄道」が設立され、宗徳は有償で特許など敷設に必要な権利一切を譲渡した。開業は翌1901年5月10日であった。 その後しばらく宗徳は馬車鉄道から離れていたが、開業の翌年、1902年8月に入間銀行頭取であった入間馬車鉄道初代社長・増田忠順が銀行の金を建設資金に流用していたことが発覚。同年9月2日に増田ら経営陣は総辞職することになり、代わりに宗徳が第2代社長として選出されることになった。
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