岡山藩時代
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正保2年(1645年)再び京極氏の口添えで岡山藩に出仕する。光政は陽明学に傾倒していたため、藤樹の教えを受けていた蕃山を重用した。 正保4年(1647年)には側役、知行300石取りとなる。慶安2年(1649年)には光政に随行し江戸に出府する。 慶安3年(1650年)鉄砲組番頭、知行3,000石の上士に累進。慶安4年(1651年)「花園会」の会約を起草し、これが蕃山の致仕後の岡山藩藩学の前身となった。承応3年(1654年)備前平野を襲った洪水と大飢饉の際、光政を補佐し飢民の救済に尽力する。また、津田永忠とともに光政の補佐役として岡山藩初期の藩政確立に取り組んだ。零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させた(しかし、新田開発に対しては一貫して否定的であった)。しかし、大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらした。また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者である蕃山は、保科正之・林羅山らの批判を受けた。 このため、1657年(明暦3年)、39歳で岡山城下を離れ、知行地の和気郡寺口村(現・岡山県備前市蕃山)に隠棲を余儀なくされた。 岡山城下の屋敷があった場所は、現在、岡山市北区蕃山町となっている。熊沢蕃山宅跡は、2015年4月24日に「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」の構成文化財として日本遺産に認定されている。
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