尾張徳川家所有以降
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長尾家没落以降の伝来は不詳であるが、1681年(延宝9年)6月に尾張藩3代藩主である徳川綱誠が購入し、以後は尾張徳川家に伝来している。本作の白鞘の鞘書には「仁壱ノ七拾九 備前国長義御刀 磨上無銘長弐尺三寸六分 延宝三乙折紙 代金拾五枚」とあり、刀の鑑定を行う本阿弥家12代当主である本阿弥光常によって金15枚と極められた折紙が附属している。鞘書きの「仁」は尾張徳川で門外不出の刀剣であることを示す蔵帳(刀剣管理台帳)の分類であるが、「仁」の分類に格上げとなったのは1872年(明治5年)のことであり、それまでは「禮」の当主差料としての扱いであった。しかし拵えが制作されていないことから、尾張徳川家所有になったあと実際に佩刀された可能性は低い。 明治維新後も尾張徳川家に伝来し、1949年(昭和24年)2月18日に尾張徳川黎明会の所有名義で重要文化財に指定された。なお本作の写しの一つである山姥切国広も1962年(昭和37年)6月21日に重要文化財に指定されており、2020年(令和2年)現在、刀剣において本歌と写しが共に重要文化財である唯一の事例となっている。
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尾張徳川家所有以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 16:48 UTC 版)
1709年(宝永6年)5月23日には、尾張徳川家第4代藩主である吉通が自国の領地である名古屋への帰国挨拶を行うため江戸城へ登城した際に、その帰国祝いとして第6代将軍家宣から拝領した。以降は明治維新後まで尾張徳川家に伝来した。1941年(昭和16年)9月24日付けで徳川黎明会の所有名義にて重要美術品に認定される。1953年(昭和28年)11月14日には重要文化財に指定され、1954年(昭和29年)3月20日には国宝に指定される。指定名称は「太刀 銘長光(名物遠江長光)」。2000年時点での所有者は東京都豊島区の徳川黎明会で、所蔵者は同法人が運営する愛知県名古屋市の徳川美術館である。
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