尾張徳川家連枝
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幕府直轄領となった梁川は、その後、天和3年(1683年)尾張藩2代藩主徳川光友の三男の松平義昌が入封し、3万石にて立藩した。分家の理由は尾張藩が血脈の断絶を恐れたためであり、同時期、同様の理由で尾張藩は四谷家(高須藩)、川田久保家を分家させている。梁川の立藩は、有力な外様である伊達家への楔となる親藩を求める幕府の思惑とも一致していた。享保14年(1729年)5月、3代・義真が卒去し、無嗣子のため廃絶となった。 同年9月、尾張藩3代藩主徳川綱誠の十九男の松平通春(後の徳川宗春)に改めて3万石が与えられたものの、翌享保15年(1730年)に世継を残さないまま尾張藩主徳川継友が死亡し、通春が尾張藩を相続したため、一時廃藩となった。宗家断絶を防止するという役目を果たしての廃藩であった。
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