尾張徳川家指南として
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元和元年(1615年)36歳の時、尾張藩御附家老・成瀬隼人正の推挙を受けて徳川家康の子・義直の兵法師範として500石で仕える。 尾張柳生家の伝承によると推挙を受けた家康は、利厳を駿府に招聘して直々に対面した上で、義直の師範となるよう要請したといい、これを受けて利厳は「江戸の但馬(叔父・宗矩)とこと違い、諸役の御奉公は一切御免蒙り、替え馬一頭もひける身分ならでは、御仕官の儀は堅く御免蒙りとう存じます。」との条件を示し、家康はこれらを認めて義直の兵法師範としたという。 尾張藩に仕えて5年後の元和6年(1620年)、義直に新陰流の剣術および新当流の槍、長刀の印可を授与する。この時利厳は自己一代の工夫考案書である『始終不捨書』の奥書に印可を添え、自身が祖父と師・棒庵から受け継いだ印可状、伝書、目録、大太刀の一切と共に義直に進上した。また後に流儀の後継者となる次男・厳包が印可を相受ける際には、義直から相伝を受ける形式を取らせたことで、流派の継承は代々尾張藩主と柳生家が協力の元で行うことが慣例となり、尾張藩「御流儀」としての新陰流の地位は不動のものとなった。
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