小酒井不木と横溝正史
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江戸川乱歩が『二銭銅貨』を森下雨村に送った際に、雨村は不木にその判定を求め、不木がこれを絶賛し、「本邦初の探偵作家江戸川乱歩」を誕生たらしめたのは有名な話である。4歳上の不木は終世、乱歩を擁護し激励し続けた。乱歩出現後の日本探偵文壇を飛躍させるため、雨村は不木に、自分たちも筆を執ろうと声をかけ、大正13年から『子供の科学』で少年探偵小説『紅色ダイヤ』の連載を始めている。 横溝正史によると不木は「温厚にして篤実、几帳面なお人柄」で、「当時の『新青年』の編集長、森下雨村にとっても、「もっと畏敬すべき存在だったに違いない」と述べている。したがって雨村が『新青年』で『二銭銅貨』を発表するにあたって、不木に推薦文を求め、乱歩の処女作に箔をつけようとしたのも当然の配慮とし、「ここにおいて乱歩は兄事すべき恰好の人物を得て、それ以来乱歩は先生(不木)をもって、つねにおのれの精神的支柱としていたようである」と語っている。 横溝が名古屋にいた不木と初めて対面したのは、大正14年のことだった。1月に当時は大阪にいた江戸川乱歩が恩人である不木を初訪問し、そのあと「関西探偵趣味の会」を結成。10月下旬にこの「関西探偵趣味の会」会員で、神戸の薬剤師だった横溝を誘って上京の途上、突然「汽車を途中下車して小酒井さんの所へ寄ろう」と言い出し、横溝も「フラフラッと」乱歩に連れられ途中下車し、「フラフラッと小酒井先生の所へお伺いした」という。 10月31日、当時23歳の横溝は乱歩とともに、胸の病と闘いながら毎月膨大な原稿を消化していたという不木に面会した。その姿は「うちになみなみならぬ闘志をひめていられたのだろうが、一見温厚そのものであった」といい、「私もいままでいろんな人とつきあってきたが、小酒井先生のような温顔の持ち主には、いまだかつて接したことがない」とその容貌を評している。 不木の「謹厳にして端麗なその温顔」は、ひとたび笑うとなんともいえぬ愛嬌のある顔になり、その笑いが終わるともとの謹厳な顔にかえる、その変化が実にクッキリとして、「こちらをヒヤリとさせるようなものがそこにあった」という。このとき不木に「横溝君は乱歩君みたいな人に可愛がられて仕合わせですね」と言われた横溝は、「先見の明もさることながら、先生は私みたいな無名の書生っぽにむかっても、そういう丁重な口のきき方をなさるのだった」と、その人となりを述懐している。
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