対立教皇時代とは? わかりやすく解説

対立教皇時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 05:20 UTC 版)

クレメンス7世 (対立教皇)」の記事における「対立教皇時代」の解説

教皇となったロベールは「クレメンス7世」と名乗ったフランス王シャルル5世ナポリ女王ジョヴァンナ1世は彼を積極的に支援しフランスナポリの他、サヴォイアシチリアスコットランドハプスブルク家などの世俗君主教会彼の権威承認した。これに対しルクセンブルク家神聖ローマ皇帝カール4世死後息子ヴェンツェル)、イングランドイタリア中部および北部ドイツ大部分などがウルバヌス6世の側についた当初中立だったイベリア半島諸国カスティーリャアラゴンナバラポルトガル)は後にクレメンス7世支持回ったクレメンス7世1379年4月ローマ攻略失敗しフランス人枢機卿らの意見従いやむを得ずアヴィニョン本拠置いた。しかし、重要な財源基盤である教皇領からの税収期待できず、直ち財政難陥ったこの為クレメンス7世は、それまで非課税であった修道院対す課税強行、他にも増税強行し不評買った。またナポリ王位は、ウルバヌス6世公認するカルロ3世ジョヴァンナ1世暗殺し王位についた)の系統と、クレメンス7世公認するルイージ1世ルイ1世・ダンジュー)の系統とが並立する事態招きカルロ3世息子ラディズラーオローマを、ルイ1世息子ルイ2世・ダンジューアヴィニョン支持それぞれの教皇権威後ろ盾にして激しく争われた。 1389年ウルバヌス6世死去すると、クレメンス7世教皇座を一本化する為にローマ枢機卿団自分改めコンクラーヴェ選出する事を期待した。しかし、結局はボニファティウス9世選出された。ボニファティウス9世即位直ちクレメンス7世退位迫り、これを拒否した彼に対し破門宣告した。これに対しクレメンス7世も、ボニファティウス9世破門宣告する事で応えた両者は全く歩み寄りする事なく、1394年9月16日クレメンス7世正統性曖昧な教皇」として脳卒中死去したアヴィニョン枢機卿次の教皇ベネディクトゥス13世選出教会大分裂続いていった。その後教会大分裂終わった時、クレメンス7世は公式に「対立教皇」として歴史記録される事が決まった

※この「対立教皇時代」の解説は、「クレメンス7世 (対立教皇)」の解説の一部です。
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