対立教皇時代
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「クレメンス7世 (対立教皇)」の記事における「対立教皇時代」の解説
教皇となったロベールは「クレメンス7世」と名乗った。フランス王シャルル5世とナポリ女王ジョヴァンナ1世は彼を積極的に支援し、フランス、ナポリの他、サヴォイア、シチリア、スコットランド、ハプスブルク家などの世俗君主と教会が彼の権威を承認した。これに対し、ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カール4世(死後は息子ヴェンツェル)、イングランド、イタリア中部および北部、ドイツの大部分などがウルバヌス6世の側についた。当初中立だったイベリア半島諸国(カスティーリャ、アラゴン、ナバラ、ポルトガル)は後にクレメンス7世支持に回った。 クレメンス7世は1379年4月にローマ攻略に失敗し、フランス人枢機卿らの意見に従い、やむを得ずアヴィニョンに本拠を置いた。しかし、重要な財源基盤である教皇領からの税収が期待できず、直ちに財政難に陥った。この為クレメンス7世は、それまで非課税であった修道院に対する課税を強行、他にも増税を強行して不評を買った。またナポリの王位は、ウルバヌス6世が公認するカルロ3世(ジョヴァンナ1世を暗殺して王位についた)の系統と、クレメンス7世が公認するルイージ1世(ルイ1世・ダンジュー)の系統とが並立する事態を招き、カルロ3世の息子ラディズラーオはローマを、ルイ1世の息子ルイ2世・ダンジューはアヴィニョンを支持、それぞれの教皇の権威を後ろ盾にして激しく争われた。 1389年にウルバヌス6世が死去すると、クレメンス7世は教皇座を一本化する為に、ローマの枢機卿団が自分を改めてコンクラーヴェで選出する事を期待した。しかし、結局はボニファティウス9世が選出された。ボニファティウス9世は即位後直ちにクレメンス7世に退位を迫り、これを拒否した彼に対し破門を宣告した。これに対しクレメンス7世も、ボニファティウス9世の破門を宣告する事で応えた。両者は全く歩み寄りする事なく、1394年9月16日、クレメンス7世は正統性の曖昧な「教皇」として脳卒中で死去した。アヴィニョン枢機卿は次の教皇ベネディクトゥス13世を選出、教会大分裂は続いていった。その後教会大分裂が終わった時、クレメンス7世は公式に「対立教皇」として歴史に記録される事が決まった。
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