宗家との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/02 13:52 UTC 版)
大内教幸の弟とされる大内教弘は、大内氏の継承者である「新介」を称していたが、一方で教幸も大内氏の歴代当主である大内弘世・義弘・持盛と同じ「孫太郎」を名乗っていた。そのため、教幸が大内氏の後継者になる可能性もあったとされるが、嘉吉元年(1441年)6月の足利義教暗殺に巻き込まれて先代当主大内持世が死亡すると、教弘が大内氏を継いで赤松氏討伐に出陣した(嘉吉の変)。 その混乱の最中に室町幕府は「嘉吉元年閏9月26日室町幕府管領奉書」(『佐々木文書』)と「(嘉吉元年)10月14日室町幕府奉行人飯尾貞連書状案」(『蜷川家文書』)を発している。前者は管領細川持之が肥前国の北高来一揆に宛てて、大内孫太郎(=教幸)以下残党が少弐教頼と語らって大内新介教弘の所領(筑前国・豊前国)に攻め込んだので教弘を救援するように命じており、後者は室町幕府奉行衆である飯尾貞連から大内教弘に宛てて、少弐教頼に対して治罰御教書を下したものの、大友持直・菊池元朝・千葉胤鎮及び(大内)孫太郎らは以前から治罰御教書を出しているため、今回は特に御教書を出さないと通知している。この両文書からは、孫太郎こと大内教幸が「残党」と呼ばれる立場になっていた(=嘉吉の変以前に大内氏前当主である持世と戦った)ことや、室町幕府は持世を支持して教幸追討を命じていたと考えられ、嘉吉の変の時点で大内氏宗家及び室町幕府と敵対していた教幸は大内氏の家督を継げず、弟の教弘が後継者になったとされる。なお、翌嘉吉2年(1442年)に持之に代わって管領に就任した畠山持国が、少弐教頼・大内持直・大内教幸の追討を引き続き命じた「嘉吉2年12月15日室町幕府管領奉書」(『志賀文書』)を発給している。 その後、文安年間以降に抵抗を断念した教幸は出家して「道頓」と名乗った。当主・教弘が"屋形"と称されるのに対して、許されて帰国した教幸は"大殿"と称され、教弘及びその嫡男である政弘を補佐する立場にあったとみられている。
※この「宗家との対立」の解説は、「大内教幸」の解説の一部です。
「宗家との対立」を含む「大内教幸」の記事については、「大内教幸」の概要を参照ください。
- 宗家との対立のページへのリンク