失踪・最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:15 UTC 版)
12月4日の朝、慧生は普段通りに大学へ向かい、午前中には学生達から姿を目撃されている。午後7時頃、慧生が自宅に戻らない事から、家族が関係各所に電話をかけはじめる。そのころ同日夕方には、湯ヶ島の静岡県警派出所に、伊豆の山中で男女を降ろしたタクシー運転手から「心中でもする気ではないか」という届けが入っていた。 12月5日、穂積の元に慧生からの最後の手紙が届く。手紙には、思いつめたOに同行するが強制されたわけではない、といった内容が書かれていた。Oと同室の寮生から、2日前に身辺整理をしていた事、伊豆の地図を見ていた証言が出る。また秋にはOが1人で伊豆へ旅行していた事も確認される。 12月6日、朝から寮生たちが伊豆方面に捜索に出る。 12月7日、新聞各紙の朝刊に「男友達に同情して“プリンセス”心中行ー元満州国皇帝のメイ家出」という見出しなどで記事が出る。オサトら学習院の同級生や地元の消防団が警察と共に伊豆での捜索に加わる。オサトらは4日の夕方に修善寺駅から2人を乗せたタクシーの運転手の証言を聞いた。「天城山トンネルまで行ってくれ」と言われ、女性の方は「帰りましょう、ねえ、帰りましょう」「今なら、まだ間に合うから、帰りましょう」と言い続けていた。午後5時頃に下車し、運転手は日暮れも近い事から、待っていましょうかと声をかけると、男は「この辺りはよく知ってるから」と即答した。女性は「ああ!こんな時間!」と言って2人は八丁池に通じる道を登っていった。不審に思った運転手は、その後湯ヶ島の警察に通報した。慧生はこの登山道に沿って学習院のサークルチラシをちぎっていき、目印を残していた。 12月8日、2人の足跡が八丁池方面三つ叉道付近で発見される。霧が深く立ちこめて視界がきかず、捜索打ち切りが決定され、同級生らは帰京した。夕方、O家と嵯峨家の話し会いが持たれ、2人に関する一切を穂積に一任し、穂積は新聞・ラジオを通じて「姿を現せば2人の交際を認める」と呼びかけた。 12月9日、伊豆に残った学生らが樹木の古株の中で着替えや靴などの遺留品を発見。 12月10日、午前9時半頃、天城山頂トンネル入り口から八丁池へ登るコースを登った標高900mの雑木林の中で、山道から20mほど入った窪地で地元消防団員が2人の遺体を発見。百日紅の木の下に2人が並んで横たわっていたとするが、近年になって遺体の第一発見者が、慧生は木の根元に凭れかかるようにして死んでおり、武道は1mほど離れたところに倒れていて、2人は別々に横たわっていたとする証言もある。凶器になった銃はOの右手に握られていた。慧生の遺体は左こめかみに銃弾の穴があり、右利きの彼女は明らかに撃たれて死亡しており、右頬には銃弾が掠めたような深くえぐられた傷跡があった。死亡診断書には「他殺。銃弾による頭部貫通」と記された。銃はOが八戸の実家から持ち出した軍用拳銃で、父親の弥三郎が満州で憲兵をしていた時代のものだった。
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