太公望の受封
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斉の歴史は西周の初年まで遡る。武王が牧野の戦いで殷を破り、滅ぼすと、周朝を開き、功臣には領地を与え報いた。先王の文王と武王の代に国師・軍師として周を支えた功臣の呂尚(太公望)は営丘(後の臨淄)に領地を与えられ、国名を斉とした。姓が姜姓のため姜姓斉国(姜斉)とも呼ばれる。営丘に赴任後、呂尚は隣接する萊の族長の攻撃を防いだ。呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にした。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した 斉の地位は諸侯の中でも崇高なものであった。武王が崩御すると後を継いだ成王が年少であったために叔父の周公旦が執政した。これを快く思わなかった、周公旦の兄弟の管叔鮮・蔡叔度・霍叔処は殷の紂王の子の武庚を擁立し反乱を起こした。周公の東征(中国語版)により3年かけて鎮圧された。これにより召公奭を伝者として「東の海、西の黄河、南の穆陵関、北の無棣に至る地域の五侯九伯の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与える」と周から命じられた。斉は征伐する権限を得て、営丘に都を築き大国となった。斉は隣国の魯と共に、周王朝の最も重要な諸侯国の1つであった。斉は周の軍事作戦で積極的に役割を果たした。2008年から2010年にかけて、山東省高青県陳荘村で西周斉国の貴族の墓群が発掘されたが、18号墓からは「祖甲斉公」という銘文が記された青銅器が発見されている。この銘文は、十干諡号を用いているのが注目される。『史記』斉太公世家によると、斉の国君は2代目の丁公から4代目の癸公まで十干諡号を用いており、佐藤信弥は、これを初代斉侯の号であると主張した。
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太公望の受封
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斉の歴史は西周の初年まで遡る。武王が牧野の戦いで殷を破り、滅ぼすと、周朝を開き、功臣には領地を与え報いた。先王の文王と武王の代に国師・軍師として周を支えた功臣の呂尚(太公望)は営丘(後の臨淄)に領地を与えられ、国名を斉とした。姓が姜姓のため姜姓斉国(姜斉)とも呼ばれる。営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にした。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した 斉の地位は諸侯の中でも崇高なものであった。武王が崩御すると後を継いだ成王が年少であったために叔父の周公旦が執政した。これを快く思わなかった、周公旦の兄弟の管叔鮮・蔡叔度・霍叔処は殷の紂王の子の武庚を擁立し反乱を起こした。周公の東征(中国語版)により3年かけて鎮圧された。これにより召公奭を伝者として「東の海、西の黄河、南の穆陵関、北の無棣に至る地域の五侯九伯の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与える」と周から命じられた。斉は征伐する権限を得て、営丘に都を築き大国となった。斉は隣国の魯と共に、周王朝の最も重要な諸侯国の1つであった。斉は周の軍事作戦で積極的に役割を果たした。
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