大阪送電計画の発端
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 15:07 UTC 版)
大同電力の前身、大阪送電株式会社の基盤となった「大阪送電計画」は、愛知県名古屋市の電気事業者名古屋電灯(1887 - 1921年)が立てた構想に端を発する。 後に大同電力初代社長となる福澤桃介が当時社長(1914年就任)を務めていた名古屋電灯では、明治末期に木曽川の水利権を確保していたが、福澤の社長就任後これに修正を加えて木曽川全体の開発計画を策定し、1915年(大正4年)9月にその旨を所管官庁の逓信省へ申請した。 水力開発の詳細は木曽電気製鉄#水力開発事業の展開を参照 この時点では水力発電所を3か所設置する計画であったが、同年10月使用水量増加を追加申請し、翌1916年(大正5年)6月には河水引用地点を見直して、最終的に4か所の発電所で計7万300キロワット (kW) を発電する計画とした。 7万kWに及ぶ水力開発計画に対し、現実に名古屋電灯が持つ需要は、1916年末のものを見ても電灯・電力合計1万8千kW余りと計画に対して過少であった。このことから、木曽川開発で生ずる電力の余力は、当初から大阪方面へと送電することが想定されていた。名古屋電灯は1915年9月、大阪市と周辺町村を供給区域とする電力供給事業を申請。1916年6月の計画修正時には堺市や兵庫県尼崎市も供給区域に追加申請した。申請に並行して大阪方面における供給先確保に向け大口電力需要家との供給契約締結に努めたが、この方針には大阪の既存電力会社宇治川電気が反発したため、妥協して同社や大阪電灯との供給契約締結を目指した。宇治川電気・大阪電灯とは1916年5月から9月にかけて交渉を重ねたが、供給料金について名古屋電灯は1キロワット時 (kWh) あたり1銭2厘、大阪側2社は9厘以下を主張して折り合いがつかず、契約締結には至らなかった。 1917年(大正6年)3月、前年に水利権を申請していた4地点のうち賤母水力(しずも、発電所出力1万2,600kW)の1地点のみ許可が下りた。当時逓信省では、水利権の転売を防止するため起業の確実性を確認した上で許可を出す方針を採っていたことから、4地点のうち名古屋方面への需要に見合う賤母水力のみの許可となり、具体的な供給先を掲示できなかった残り3地点は見送られたのである。ここに至り名古屋電灯は大阪送電計画を一時棚上げし、電気で製鉄業をなすという「電気製鉄」の計画を立ち上げて、木曽川開発による電力を製鉄業に振り向けることとなった。そして翌1918年(大正7年)9月8日、水力開発事業と電気製鉄事業を名古屋電灯から分離し、木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立した。ただし、電気製鉄事業は操業開始後まもなく頓挫している(電気製鉄事業の経緯は木曽電気製鉄#電気製鉄事業の展開に詳しい)。
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