大阪における下町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 22:56 UTC 版)
豊臣初期は武家地、町人地とも上町台地上に展開していた。しかし、豊臣秀吉晩年の1598年に大坂城三の丸の造成が始まると、三の丸内に展開していた町人地の大半が船場へ移転された。西端部を除いて現在も船場に残る40間四方の区画は太閤地割と呼ばれる豊臣時代の名残である。 江戸時代に入ると下船場・島之内・中之島などが幕府や有力町人によって開発され、寺内町だった天満を大坂城下に取り込む一方、豊臣時代の三の丸にも再び町人地が展開され、上町台地上の渡辺、玉造、上本町、谷町などが上町と総称されるようになった。武家地については、大坂城代や大坂町奉行の屋敷地は基本的に上町台地上に位置する大坂城内や上町に置かれたが、一部は天満の北縁や川口に置かれ、天下の台所と称された都市の性格上、各藩の大名屋敷(蔵屋敷)はもっぱら堂島や中之島といった水運に利する低地に置かれた。 地理的高低差によれば、上町台地上の上町以外は全て低地の下町ということになるが、上述のとおりブロックごとの固有名称が一般的であるため、下町という呼称はまず用いられない。しかし近年、マスメディアなどの影響により、東京の下町に似た庶民的な街を下町と呼ぶことが多くなった。 ただし大阪においては、東京の下町の雰囲気に通じる新世界、天下茶屋、天王寺や駒川の駒川商店街などの地域はもともとの大阪市域ではない。また玉造や空堀商店街界隈、寺町群など天王寺区域は上町台地上に位置している。今日的な下町のイメージを持つ街のうち、大坂城下の町人地としての歴史を有しなおかつ上町以外に位置するのは、天満の天神橋筋商店街界隈ぐらいである。
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