大西洋横断飛行の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 03:21 UTC 版)
「タデウス・ロー」の記事における「大西洋横断飛行の試み」の解説
ローの最新で巨大な気球シティ・オブ・ニューヨーク号大西洋横断飛行は、直径103フィート (31.394 m)、コークスガスを用いたときの揚重能力11.5トン (10,432.6 kg)(水素では22.5トン (20,411.6 kg) )だった。これで直径20フィート (6 m)、8人乗りのテント地で覆ったゴンドラと、ローの妻に因んでレオンティンと名付けた懸架式救命ボートを運ぶことができた。1859年11月1日、ニューヨークの貯水池広場で行われる試験飛行のために準備された。地元のガス会社が十分な量のガスを供給することができなかった。ローは1週間も経たないうちにベンジャミン・フランクリン科学研究所のジョン・C・クレソン教授によってフィラデルフィアに招かれた。クレソン教授は偶々ポイント・ブリーズ・ガス・ワークスの理事会議長でもあった。彼等は十分な量のガス供給で合意した。ローは気球をホーボーケンで保管し、試験飛行のために春まで待った。 試験飛行の前に気球は、新聞記者ホレス・グリーリーの忠告に従って、グレート・ウェスタン号と改名された。これは1860年春に処女航海を行う蒸気船グレート・イースタン号に張り合うものだった。ローは1860年6月28日にフィラデルフィアからニュージャージーまでの飛行を成功させたが、9月7日の最初の大西洋横断飛行の試みではグレート・ウェスタン号が風で裂けた。9月29日の2回目の試みでは、気球を膨らませている時に修復した場所から漏れが発生した。ローはグレート・ウェスタン号を総点検する必要に迫られ、横断飛行は翌年晩春まで待つことにした。 2回目の試験飛行はヘンリー教授の提案で、オハイオ州シンシナティから東部海岸に帰ってくることになった。この飛行には小型のエンタープライズ号を用いた。飛行は、バージニア州がアメリカ合衆国から脱退した日の2日後にあたる1861年4月19日の早朝に離陸した。このとき誤ってサウスカロライナ州ユニオンビルまで飛んでしまい、そこでヤンキーのスパイとして拘束された。ローは自分が科学者であることを証明し、故郷へ帰ることを許された。その故郷ではアメリカ合衆国財務長官サーモン・チェイスからの伝言が待っており、その気球を持ってワシントンD.C.に来るようにとのことだった。南北戦争の勃発によって大西洋を渡ろうというローの試みを終わらせることになった。
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