大帝国の建設と崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 08:54 UTC 版)
「ホラズム・シャー朝」の記事における「大帝国の建設と崩壊」の解説
テキシュの子アラーウッディーン・ムハンマドの治世に、ホラズム・シャー朝は最盛期を迎えた。アラーウッディーンはホラーサーンに侵入したゴール朝を撃退したうえ、逆にゴール朝のホラーサーンにおける拠点都市ヘラートを奪った。カラ・キタイの宗主権下で辛うじて存続していた西カラハン朝は臣従と引き換えにアラーウッディーンにカラ・キタイへの反攻を要請し、1208年(1209年)にカラ・キタイを攻撃した。アラーウッディーンはカラ・キタイに敗れてホラズム内に彼が戦死した噂まで流れるが、1210年には西カラハン朝に加えてナイマン部と同盟してスィル川を渡り、キタイ人を破った。同1210年(もしくは1212年)にホラズムへの臣従を拒絶した西カラハン朝を完全に滅ぼしてアム川とスィル川の間に広がるマー・ワラー・アンナフルを勢力下に置き、首都をサマルカンドに移した。 さらにはシハーブッディーンの死後急速に分裂し始めたゴール朝を打ち破って現在のアフガニスタン中央部までほとんどを征服、1215年にゴール朝を滅ぼした。アラーウッディーンはゴール朝のホラズム侵入をアッバース朝の扇動によるものと考え、バグダードの領有とカリフの地位を望んだ。アッバース朝が招集したファールスやアゼルバイジャンのアタベク政権を破り、1217年にはイラクに遠征してアッバース朝に圧迫を加えてイランのほとんど全域を屈服させるに至り、ホラズム・シャー朝の勢力は中央アジアから西アジアまで広がる大帝国へと発展した。 しかし、ホラズム・シャー朝の没落もまた、アラーウッディーンの時代に劇的に進むこととなった。ホラズム・シャー朝が最大版図を達成したのと同じ頃、モンゴル帝国がカラ・キタイの政権を奪ったナイマン部のクチュルクを滅ぼし、ホラズム・シャー朝と中央アジアで境を接するようになっていた。アラーウッディーンはモンゴル帝国のチンギス・ハーンと誼を通じていたが、1216年にスィル川河畔のオトラルで、ホラズム・シャー朝のオトラル総督イナルチュクが、モンゴルの派遣した商業使節が中央アジア侵攻のための密偵であると疑い、一行400人を殺害してその保持する商品を奪う事件が起こった。モンゴルからイナルチュクの引き渡しを要求する使者が到着するが、アラーウッディーンはテルケン・ハトゥンの親族であるイナルチュクの引き渡しを拒み、使者を殺害あるいは侮辱した。
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