大学講師委嘱、牧師任職、教会一致運動に参与(1931–1933)
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「ディートリヒ・ボンヘッファー」の記事における「大学講師委嘱、牧師任職、教会一致運動に参与(1931–1933)」の解説
1931年に帰国後、ヴィルヘルム・リュトゲルトの組織神学講座の私講師として、ボンヘッファーはベルリン大学神学部で講義をおこなった。1931/1932冬学期に、彼は20世紀組織神学の歴史に関する講義と哲学におけるイデーと福音主義神学に関するゼミナールを担当した。1932年に「教会の本質」に関する講義をおこなった。それはハルナックの「キリスト教の本質」との相違を強調したものであった。1933年には彼はキリスト論を講義した。彼の講義は好評で多くの学生が出席したが、祈りで始めるボンヘッファーの講義は学生たちにとっても異例のものであった。伸長する国家社会主義に心を動かされていた受講者たちはボンヘッファーの発言に驚かされた。「次の戦争は神の掟への敵対することから生じるのであり、戦争はもはや必然事項ではない、何故なら、戦争は啓示に目を向けることを奪うからである」と他の講師たちは決してしない時局的発言をおこなったからである。1931年、オットー・ディベリウスはベルリン工科大学に福音主義学生共同体を設立させ、大学内での指導をボンヘッファーに託した。しかしながら、福音主義学生共同体は学生たちから強い拒絶を受け、1933年には解散に追い込まれた。ボンヘッファーはベルリン・ミッテ区の労働者居住地域にあるシオン教会 (ベルリン) で牧師補として堅信礼教育を1932年3月までおこなった。1931年夏に、彼はフランツ・ヒルデブラントと共に堅信礼のためのカテキズムを書いた。そこで二人は聖戦という考え方に反対し、平和のための祈りに賛成するという見解を記述した。1932年にボンヘッファーは若年失業者のために青年会館を開設したが、1933年にナチスによって共産主義的として閉館された。1931年11月15日、ボンヘッファーはマテーウス教会 (ベルリン=ティーアガルテン)で牧師に任職した。彼は教会共同体から良き説教者としての評判をすぐに得た 。彼は2度 ベルリン東地区の教会牧師職を得ようと試みたが徒労に終わった。その後、彼は世界教会連盟(WFK)の青年活動担当の仕事を引き受けた。ボンヘッファーはボン大学福音主義神学部のゼミナールに短期訪問した3週間の間、初めて個人的にカール・バルトに出会った。その後、二人は数回会い、神学的意見交換をおこなった。お互いの共感と神学的、政治的近さは最初からその間柄において相互批判として結びついた。それによって、この結びつきは両者の神学において実り豊かなものになった。週末、ボンヘッファーは学生たちと黙想と議論をするためにマルク地方のユースホステルに出かけた。1932年、そのためにベルリン郊外のビーゼンタールにある山小屋を両親の支援を受けて購入した。この自由闊達なボンヘッファー・サークルから 教会闘争における協力者と教会一致運動に加わる代表者たちが1933年から生まれた。
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