塀際の魔術師
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塀際の魔術師(へいぎわのまじゅつし)、あるいは壁際の魔術師(かべぎわのまじゅつし)は、プロ野球選手の愛称。以下の2名が該当する。類義語にフェンス際の魔術師がある。
- 1 塀際の魔術師とは
- 2 塀際の魔術師の概要
塀際の魔術師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:55 UTC 版)
1948年11月26日の東西対抗戦第4試合(後楽園球場)、7回二死後、投手・川崎徳次、打者・飯田徳治の場面で、飯田が左翼ポールぎりぎりに入る本塁打性の大飛球を打ち上げたところ、左翼を守っていた平山が、右手を外野フェンスに掛け反動を利用してジャンプし、左手のグラブを観客席の方に大きく突き出して捕球し、アウトにする。このプレーを球場で見ていた大和球士によって「塀際の魔術師」と命名された。平山にとっては偶然生まれたプレーだったが、このニックネームによって平山の外野守備が大きくクローズアップされたことで、平山はこの言葉に名前負けしないように、いつでも同じプレーができるように猛練習を繰り返したという。 平山は「本当はフェンス際でのプレーは怖かった」と語っている。プロ入り直後、練習中にコンクリートのフェンスに激突して前歯を折る大怪我を負って恐怖心を抱いていた。しかし、「魔術師」の異名が付いた後、フェンスまでのステップ、踏み切りの位置、タイミングを工夫するなど、プレーを自分のものにするためにフェンス激突も厭わず練習を繰り返したことで、左肘には生傷が絶えなかった。 「塀際の魔術師」のネーミングについて、平山は「終世、安藤さん(大和の本名)には足を向けて寝られない」と尊敬の念を忘れることはなかったという。 平山のフィールディングを支えたフットワークはダンスの練習から生まれたものとの笑い話がある。1938年春に巨人軍が北九州、韓国遠征(満州遠征ともされる)を行ったが、打撃が弱かった平山はメンバーに選ばれなかった。残留メンバーはわずか3人で練習もままならず、平山は野球そっちのけで毎日、ダンス教室に通っていた。遠征から帰ったメンバーのひとりに“こっちはダンスを楽しんでいた”と吹聴したところ、戦後になって平山が名外野手として一目置かれる存在になった時にその選手が「平山はみんながいない間にダンスでフットワークを鍛えていたんだ」と美談化していたのだという。
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