堀川基具の准大臣宣下
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寛弘7年(1010年)に藤原伊周が死去したあと、准大臣の待遇は久しく絶えた。これが復活するのは約300年後のことである。堀川基具は弘長元年(1261年)11月に権大納言に任じられて以来、長く大納言の職にあったが、弘安6年12月20日に従一位に叙されるとこれを機に、それから1か月も経たない弘安7年(1284年)1月13日に大納言を辞任した。すると15日には、大臣の下大納言の上に列して朝参すべき由の宣下を受けた。准大臣の復活である。基具の受けた待遇は伊周の場合とはその状況も内容も異なるものだったが、基具は伊周にならって自らを儀同三司と称した。これ以後、准大臣はひとつの称号と化し、儀同三司は准大臣の唐名となって定着してゆく。 基具は太政大臣になれる家格である清華家の出身であり、文永9年(1272年)8月以降は大納言の首席の位置を占めて、いつ大臣に昇進してもおかしくはない立場にあった。しかしこの間、大臣の地位にはほとんど基具よりも若年の摂関家出身者たちが任じられており、基具にその機会は巡ってこなかった。このような不遇をかこっていた基具を慰撫するため、長くほこりをかぶっていた准大臣の待遇が復活されたのである。この特別待遇が、天皇側(当時は亀山院の院政)から恩恵として与えられたものか、基具の側から要求して与えられたものかは意見の分かれるところである。 旧儀の突然の復活に周囲は当惑し、混乱や批判がでた。まず准大臣が現職の大臣なのか、それとも単に前大納言なのかが問題になった。これは亀山院の裁定で前大納言という結論に落ち着き、基具は現職者だけが参加できる叙位の擬階奏の儀式からは閉め出されることとなった。ところが当の基具は儀同三司を大臣に准じた官職であるとして儀式から排除されたことを「存外之沙汰」と憤慨していたことが知られている。また基具は書状に「儀同三司」と署名したが、本来は散位なのでただ「一位」と署名すべきだったことから、西園寺公衡はこれを基具が勝手に官職を作ったと非難している。
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