堀川基具の准大臣宣下とは? わかりやすく解説

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堀川基具の准大臣宣下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 17:23 UTC 版)

准大臣」の記事における「堀川基具の准大臣宣下」の解説

寛弘7年1010年)に藤原伊周死去したあと、准大臣待遇久しく絶えた。これが復活するのは約300年後のことである。堀川基具弘長元年1261年11月権大納言任じられ以来長く大納言の職にあったが、弘安6年12月20日従一位叙されるとこれを機に、それから1か月経たない弘安7年1284年1月13日大納言辞任した。すると15日には、大臣下大納の上列して朝参すべき由の宣下受けた准大臣復活である。基具の受けた待遇は伊周の場合とはその状況内容異なるものだったが、基具は伊周にならって自らを儀同三司称した。これ以後准大臣はひとつの称号化し儀同三司准大臣唐名となって定着してゆく。 基具は太政大臣になれる家格である清華家出身であり、文永9年1272年8月以降大納言首席位置占めて、いつ大臣昇進してもおかしくはない立場にあった。しかしこの間大臣地位にはほとんど基具よりも若年摂関家出身者たちが任じられており、基具にその機会巡ってこなかった。このような不遇かこっていた基具を慰撫するため、長くほこりをかぶっていた准大臣待遇復活されたのである。この特別待遇が、天皇側(当時亀山院院政)から恩恵として与えられたものか、基具の側から要求して与えられものかは意見分かれるところである。 旧儀の突然の復活周囲当惑し混乱批判がでた。まず准大臣現職大臣なのか、それとも単に前大納言なのかが問題になった。これは亀山院裁定で前大納言という結論落ち着き、基具は現職者だけが参加できる叙位擬階奏儀式からは閉め出されることとなった。ところが当の基具は儀同三司大臣に准じた官職であるとして儀式から排除されたことを「存外沙汰」と憤慨していたことが知られている。また基具は書状に「儀同三司」と署名したが、本来は散位なのでただ「一位」と署名すべきだったことから、西園寺公衡はこれを基具が勝手に官職作った非難している。

※この「堀川基具の准大臣宣下」の解説は、「准大臣」の解説の一部です。
「堀川基具の准大臣宣下」を含む「准大臣」の記事については、「准大臣」の概要を参照ください。

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