堀井謄写堂のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 18:09 UTC 版)
A・B・ディック社のミメオグラフは、のち内田洋行が輸入代理店となって日本でも販売された。新治郎が創業した堀井謄写堂は、昭和謄写堂(現・株式会社ショーワ)、ホース(林商店、のちテクノハヤシ株式会社)とともに、戦前の国内謄写版メーカーの一角を成した。さらに戦後にかけて、萬古(VANCO、バンコ株式会社)、プラス(プラス株式会社)、サカタ(阪田産業、現・サカタインクス株式会社)、ヴィナス(女神インキ工業株式会社)、ライオン(ライオン事務器株式会社)など数多くの同業者とともに一定のシェアを維持した。 PPC複写機の普及による1970年代の謄写版衰退を受け、国内謄写版メーカーのほとんどはこれまでのノウハウを生かして既に手がけていた、もしくは本業であった事務用品や印刷用インキなどのメーカーとしてそれぞれ転換していったが、堀井謄写堂は謄写版用品の製造販売を継続。また家庭の年賀状用途を狙って1977年に発売開始された理想科学工業の簡易シルクスクリーン印刷器「プリントゴッコ」に対抗し、ボールペン原紙(ホワイトミリア原紙)をセットにしたB6判樹脂製簡易謄写器「マィプリンター」や、プリントゴッコ同様にスクリーンと原紙を一体化し、紙に圧着印刷する簡易シルクスクリーン印刷器「マィプリンター・いろいろ」や「マィプリンター・ピカイチくん」などのマィプリンターシリーズを発売して追随を図ったが、成功しなかった。 ワードプロセッサやパーソナルコンピューターの普及で事務現場のOA化が進む中、1985年、商号をホリイ株式会社に改称。ミリアグラフやマィプリンターなどの印刷用品事業は1987年に打ち切り、事務機器の販売会社に事業転換した。しかし経営陣である創業家の堀井一族が1998年ごろから始めた不動産業が失敗し、損失が積み重なった上に堀井家がこれを放置したことから、負債が約87億円に拡大して資金繰りが急速に悪化。2002年9月3日に二度目の不渡りを出し、同年9月25日に東京地裁から破産宣告を受け倒産した。清算で売却された東京都千代田区の旧本社ビル(現・神田中央通ビル)には、ホリイが設置した「謄写版発祥の地」と題した金属製の記念プレートが現在も壁面に残されている。
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