垪和氏
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垪和氏(はがし)は、美作国久米北条郡垪和(現・岡山県久米郡)から発祥した武家の氏族。同郡垪和郷を拠点とした。
注釈
出典
- ^ 見聞諸家紋-26-
- ^ 臼井信義 「尊氏の父祖-頼氏・家時年代考」(『日本歴史』第257号.1969年)
- ^ 近代足利市史 第一巻通史編 第三節 足利氏の所領とその経営
- ^ 『美作国垪和庄と垪和氏』榎原雅治
- ^ 渡邊大門 「美作地域における奉公衆の研究」
- ^ 著・黒田基樹ら戦国史研究会会員 『真説【戦国北条五代】早雲と一族、百年の興亡』- 北条一族とその家臣 - 垪和氏項目
- ^ a b c d e 黒田基樹『戦国北条家一族事典』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-289-6 P223-224.
- ^ a b 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」黒田基樹 編『今川義元とその時代』〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉(戎光祥出版、2021年) ISBN 978-4-86403-391-6 P267.
- ^ 『美作古城記』『東作志』などによれば、菅原道真20代の後胤・羽賀祐房があり、久米北条郡和田北村鶴田城の城主であったという。祐房━助盛━貞盛━景盛と続いている。
- ^ 『作陽誌』の久米郡山川条にも塀和氏がみえる。塀和郷鶴田堡和田城城主に塀和八郎為長があり、為長の子が高城堡城主・竹内善十郎為能だとされる。
- ^ この時の七百騎の内、宮尾廣道、垪和為則の子為晴率いる垪和勢は三百騎(『垪和氏系図』)
- ^ 二上山両山寺の青銅製鰐口が南朝年号である正平18年(1363年)となっている。『岡山県通史』永山卯八郎
- ^ 『東作誌』勝南郡豊国条
- ^ 足利義持室。日野資康の娘。日野家の庶流裏松家を興した裏松(日野)重光の妹でもある。
- ^ 水島の変にて少弐冬資を討ち取った後、攻め取った敵城に居座って逆に殲滅された。『角川日本地名大辞典33 岡山県』岡山 - 真島荘(中世)
- ^ 院庄・鏡野など北方は杉山氏が管轄し、神楽尾城は垪和に多い姓で垪和武士団の一翼を務めたと見られる大蔵氏が城主となった。
- ^ a b 公卿類別譜(公家の歴史)-半家-高倉、高辻、竹内、富小路
- ^ 「垪和善七勝植、姓は源、其先美作国垪和郷に住するを以て氏とす。祖父を伊予守信次と云、小田原北条家に属し駿州興国寺の城主なり。父を左兵衛信之と云、小田原没落の後、秀吉召して千石を賜ふ。勝植は神君に仕へ元和元年威公に奉仕、二百石を賜ふ」『水府系纂』の記述から、奉公衆時代に竹内家と婚姻・養子関係を結んでいたと見られる。
- ^ どの段階で垪和氏の系統に竹内家の血族が入り込んだのかは不明。竹内氏系図では為治から垪和竹内氏が発祥したとなっている。
- ^ 久我家文書解説 久我家文書と久我家領 國學院大學名誉教授 小川 信
- ^ 姓氏家系大辞典が載せる伝承では豊治が垪和に在住した。
- ^ 一説に、従三位弾正大弼為縁は芳賀入道禅可の五代後で、その子二人が垪和に移住したと謂う。ただし、芳賀氏は清原氏であって源氏ではない。
- ^ 竹内豊治の子、為就は猶子。杉山為就との関係は不明。
- ^ 享徳二(1453)年正月五日生
- ^ 竹内新流の伝承によれば、幸治の子孫が久盛で為就は養父であり、京都在住時は幸次と名乗ったという。●竹内新流 - ★日本歴史文化研究機構 <JCIA>(理事長・竹内睦泰)★
- ^ 江戸時代に成立した竹内家系図を元にしたと思われる『籾村 地名と方言』記載系図と公卿類別譜を基に作成。
- ^ 亀山家賀陽郡八田部村
- ^ 間野家都宇郡新庄村
- ^ 垪和為昌 とは - コトバンク
垪和氏
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久米郡垪和郷を領す。古代からの豪族であるが、佐延が養子に入ったことで菅原氏と関係を持つようになった。室町幕府奉公衆。 詳細は「垪和氏」を参照
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垪和氏(後北条氏臣下)
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後北条氏政権で評定衆、奉行人など重職を勤め、領地も千貫を越える大身であった垪和氏がおり、又太郎を幼名とする興国寺城城主を務めた垪和氏続の系統の他に、垪和康忠らがいた。 この垪和氏は、水戸藩藩士の経歴を記す『水府系纂』に「垪和善七勝植、姓は源、其先美作国垪和郷に住するを以て氏とす。祖父を伊予守信次と云、小田原北条家に属し駿州興国寺の城主なり。父を左兵衛信之と云、小田原没落の後、秀吉召して千石を賜ふ。勝植は神君に仕へ元和元年威公に奉仕、二百石を賜ふ」とあるように美作垪和氏が出自であり、同じ後北条氏重臣の松田氏、遠山氏、大道寺氏、大和氏らと同様に、中国地方から伊勢盛時(北条早雲)とともに下向したものと思われる。この、小田原北条氏創業時に一緒に下ったそれぞれの氏族の子孫は、北条氏家中で重職を務めるなど重用されていた。 これに対して、近年北条氏の研究者である黒田基樹は元々堀越公方の奉公衆で堀越公方の滅亡後に盛時に従って駿東郡の一部を与えられたか、一旦駿東郡の国衆化して今川氏に従属していたものが河東一乱において北条氏に味方したために今川氏に追われて関東に逃れて北条氏の家臣になったとする説を唱え、今川氏の研究者である大石泰史も河東一乱の際に今川氏から北条氏に離反したとする説を唱えている。これらの説は垪和氏が最初から北条氏の家臣だったわけではなく、北条氏とは同盟者的存在であったものが北条氏に味方したために所領を失った結果として家臣化した経緯のために重んじられたとする見方となる。 垪和康忠の子孫は尾張藩士となった。
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