北条早雲
(伊勢盛時 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 07:27 UTC 版)
北条 早雲 / 伊勢 宗瑞(ほうじょう そううん / いせ そうずい)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将。戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。「北条早雲」の名で広く知られているが、実際は存命中には「伊勢」の姓を名乗っていた。
注釈
- ^ 様々な名が諱とされていたが、現在では盛時が定説となっている。
- ^ 江戸時代の系図にはそれぞれが養父とされているものがあるが、近年の研究では盛時は盛定の嫡男だったとみられており、他家の養子となった事実は確認されていない。
- ^ 伊勢盛定の長男の貞興の動向の記録はなく、次男の盛時が早くから嫡男の立場にあったと考えられている[1]。
- ^ 伊勢氏は桓武平氏の平維衡の末裔であり、本姓は平氏。
- ^ a b 内書は慈照院殿(足利義政の法名)の名義で出されている[29]。
- ^ 享徳3年(1454年)に始まった享徳の乱を東国戦国期の始期とする見解もある[39]。
- ^ こうした政策を明応7年(1498年)8月25日に発生した明応の大地震の被災者救済策とみる考えもある。後述のように、実際地震から数日後に茶々丸は自害に追い込まれており、明応7年8月の出来事とすると一連の逸話が整合性のあるものとなる[42]。
- ^ 甲斐は前守護武田信昌と信昌の次男の油川信恵と嫡男で守護信縄との内訌が、相甲国境のある都留郡の小山田氏など甲斐国内の有力国衆の争いと関係して乱国状態にあり、対外的に信縄は堀越公方について足利茶々丸を庇護し、信昌・信恵は氏親や宗瑞と結び信縄と対立していた。信縄と信昌・信恵間の抗争は明応7年(1498年)の明応の大地震による一時収束を挟みつつ続き、信縄の後継である信虎(信直)期にようやく収束した。
- ^ ただし、この説は小田原城攻めが1495年でなければ成立しないため、後述の見解とは矛盾する。
- ^ 『早雲寺殿廿一箇条』の成立時期については明らかではなく、宗瑞の制定によるものとするのは今のところ所伝に過ぎない[70]。
- ^ ただし、佐藤良雄は妻について「妻妾は知られていないが男子が三名あったので不詳ではあるが妻があったものであろう」と留保している[77]。なお、軍記物には「韮山城主北条氏の後家と結婚した」という説もある[78]。
- ^ 小笠原政清の娘、政清は小笠原元続の祖父、小笠原康広(元続の子)と細川氏家臣・小笠原秀清(少斎)の曽祖父。
- ^ 後者論文で黒田が紹介した高橋家過去帳には「(伊豆)狩野氏女」と記されている。
- ^ 『寛永諸家系図伝』の狭山藩北条家の届け出た家系図では北条行長の実子としており、逆に幕臣伊勢家の系図では「伊勢貞親の二男貞藤が伊勢宗瑞」としていた。
- ^ なお、この他にも続群書類従所収の「小田原北条系図」が生国勢州(伊勢)とする[77]。
- ^ なお、「続群書類従」に収める「正本伊勢系図」にも同様の「伊勢貞時 新九郎、申次之衆なり。但し駿河守貞通の養子。後の小田原北条氏の祖なり、氏茂と改む。氏茂初めは長氏」云々の記載がある[77]。
出典
- ^ 黒田(2005),p.18.
- ^ 黒田(1997),p.38.
- ^ 今泉定介編『尊卑文脈[1]』(吉川弘文館、1899年)
- ^ 家永(2005),p.37;桑田(1990),pp.110-113.
- ^ a b c 池上裕子. “北条早雲-コトバンク”. 杉山博『北条早雲』(1976・名著出版)収録 日本大百科全書(小学館). 2023年3月1日閲覧。
- ^ 黒田(2019), 第一章「彼らは室町幕府の直臣であったから、すべて京都生活を送っていた存在となる。したがって盛時にしろ、父の盛定にしろ、京都生まれの京都育ちであった」
- ^ 下山(1999),p.16.
- ^ 市村(2009),p.12;家永(2005),pp.42-43
- ^ a b 小和田(1989),pp.51-53.
- ^ a b 家永(2005),p.43.
- ^ 下山(1999),p.20.
- ^ a b 杉山(1974),p.67.
- ^ 下山(1999),p.29.
- ^ “高越城址:歴史・文化:史跡・名勝:観光情報”. 井原市観光協会. 2012年7月15日閲覧。
- ^ 下山(1999),pp.25-29.
- ^ 黒田(2005),pp.17-18.
- ^ a b 小和田(1983),pp.133-134.
- ^ 家永(黒田2013),pp.228-232.
- ^ a b 相模国盗り物語(2008),p.25.
- ^ 家永(2005),p.45.
- ^ a b 家永(2005),p.46.
- ^ 市村(2009),p.12;家永(2005),p.46;下山(1999),pp.35-36.
- ^ 黒田(2005),pp.18-19.
- ^ a b 下山(1999),pp.29-30.
- ^ 『大日本史料』8編15冊631頁、「長禄二年以来申次記」10月11日条。備前守貞定息
- ^ 室町幕府引付史料集成(1980)
- ^ 古野(2008),p.131.
- ^ a b 小和田(1989),p.43.
- ^ 小和田(1983),pp.148-149.
- ^ a b c 黒田(2005),p.20.
- ^ 黒田(2013),p.21.
- ^ 小和田(1989),p.44.
- ^ a b 黒田基樹「伊勢盛時と足利政知」『戦国史研究』第七十一号 2016年 pp.21-22
- ^ a b 下山(1999),pp.43-44.
- ^ 家永(2005),p.48.
- ^ 黒田(2005),p.20-21.
- ^ 市村(2009),p.15.
- ^ 市村(2009),p.4.
- ^ 市村(2009),p.3.
- ^ 桑田(1990),pp.119-120.
- ^ 市村(2009),p.13;黒田(2005),pp.21-22
- ^ 家永(黒田2013),pp.268-271.
- ^ 桑田(1990),pp.121-124.
- ^ 家永(2005),pp.49-50
- ^ 家永(黒田2013),pp.268-271.・黒田(2013),p.27.
- ^ 杉山(1974),p.71.
- ^ クロニック戦国全史(1995),p.148.
- ^ 落城伝説と津波11津波と牛と早雲 - Shizuoka城と戦国浪漫 『伊豆新聞』『熱海新聞』『伊豆日日新聞』日曜版 2011年11月27日 金子浩之
- ^ a b c 黒田(2005),pp.26-30.
- ^ 黒田(2005),p.28.
- ^ 市村(2009),pp.18-19;黒田(2005),p.29.
- ^ クロニック戦国全史(1995),p.145.
- ^ a b 家永(2005),p.50.
- ^ a b c d e f g 家永(2005)、pp51-54「伊豆平定・一国の主へ」。
- ^ a b 黒田基樹「今川氏親の新研究」『シリーズ・中世関東武士の研究 第二六巻 今川氏親』(戎光祥出版、2019年4月) ISBN 978-4-86403-318-3 P42-43.
- ^ クロニック戦国全史(1995),p.176.
- ^ クロニック戦国全史(1995),p.181.
- ^ 黒田(2005),p.44.
- ^ 黒田(2019),p.204-206.
- ^ a b c 黒田((2012-01),pp.42-45.
- ^ 市村(2009),p.21
- ^ 黒田(2005),p.48-49;下山(1999),p.68.
- ^ クロニック戦国全史(1995),p.203.
- ^ 黒田(2005),pp.49-50.
- ^ a b 平塚市 1985, p. 7.
- ^ クロニック戦国全史(1995),p.216.
- ^ 菅沼晃. “早雲寺- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書(小学館). 2012年7月17日閲覧。[リンク切れ]
- ^ クロニック戦国全史(1995),p.26.
- ^ 大久保俊昭. “早雲寺殿廿一箇条- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書(小学館). 2012年7月16日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 黒田(2005),pp.53-54;クロニック戦国全史(1995),p.216.
- ^ 黒田(2005),p.43
- ^ 家永(2005),p.55.
- ^ クロニック戦国全史(1995),p.207.
- ^ 久保田昌希「戦国大名今川氏の三河侵攻」(初出:初出:今川氏研究会 編『駿河の今川氏』第3集(1978年)/所収:黒田基樹 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二六巻 今川氏親』(戎光祥出版、2019年4月) ISBN 978-4-86403-318-3)2019年、P145-146.
- ^ 黒田(2019),p.200.
- ^ 黒田(2005),p.54,56.
- ^ a b c d e f 佐藤(2001)
- ^ 海音寺(1975)
- ^ 黒田(2007),p.33.
- ^ a b 黒田(2005),p.57.
- ^ 黒田(2005),pp.58-60.
- ^ 黒田(2005),p.55.・黒田(2013),p.16.[注釈 13]
- ^ 黒田(2007),p.33-35.
- ^ a b 「金竜院位牌」
- ^ 黒田(2007),p.42-43.
- ^ 黒田(2007),p.43.
- ^ 黒田(2005),p.56,60
- ^ a b 家永(2005),p.45.
- ^ 家永(2005),pp.35-36
- ^ 家永(2005),p.34.
- ^ 家永(2005),pp.36-37;杉山(1974),pp.64-67.佐藤(2001)
- ^ 杉山(1974),p.64.
- ^ 相模国盗り物語(2008),p.27;家永(2005),pp.35-37,40-41;杉山(1974),pp.65-66.海音寺(1975).
- ^ 杉山(1974),p.66.
- ^ 家永(2005),p.37.
- ^ 家永(2005),pp.37-38.
- ^ 家永(2005),pp.42-43.
- ^ 家永(2005),p.40.
- ^ 黒田(2005),pp.14-15.
- ^ a b 黒田(2005),p.13;下山(1999),p.14.
- ^ 黒田基樹「北条早雲の事績に関する諸問題」『おだわら-歴史と文化』9号
- ^ 黒田(2005),pp.13-14.
- ^ 黒田(2013),pp.9-18.
- ^ 黒田(2005),pp.16-17.
- ^ 小和田哲男. “小田原城奪取”. 広報おだわら第655号 1995 小田原市. 2023年3月1日閲覧。
- ^ 海音寺(1975),pp.186-190.
- ^ 桑田(1990),pp.110-136.
- ^ 海音寺(1975),pp.147-190.
- ^ a b “その時歴史が動いた#2005年 5月分 放映リスト(Internet Archive)”. 日本放送協会. 2006年5月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月14日閲覧。
- ^ 井沢(2008),pp.22-23
- ^ “北条氏五代100年の歴史”. 北条五代観光推進協議会(小田原市公式サイト内). 2012年7月16日閲覧。
- ^ “法泉寺文書[二十一通] 附 伊勢盛時禁制札[一面]” (PDF). 2020年6月15日閲覧。
伊勢盛時(いせ もりとき)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
「センゴク」の記事における「伊勢盛時(いせ もりとき)」の解説
通称は新九郎、後に出家して宗瑞。幕府申次衆伊勢氏出身ながら後に後北条氏の家祖となり、北条早雲と称される大人物。醜男ではあるが妙に女性にモテる人柄で、大柄な体格から五十貫もの神輿を持ち上げる怪力に加え、有職故実を網羅し、知略・戦略にも長けるが、妻から「生存力が強すぎる故、礼法が下らないと思うのでしょう」と苦言も呈されていた。武将となってからは”室町武士的な豪放な決断力と東山文化を体現する繊麗な政略”を併せ持つ稀代の名将となった。
※この「伊勢盛時(いせ もりとき)」の解説は、「センゴク」の解説の一部です。
「伊勢盛時(いせ もりとき)」を含む「センゴク」の記事については、「センゴク」の概要を参照ください。
- 伊勢盛時のページへのリンク