美作菅氏
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美作菅氏(みまさか かんし)は、菅原道真で有名な菅原氏から派生した美作国の氏族。美作国勝田郡を中心に繁衍し、さまざまな支族を生んだ。
注釈
- ^ 勝田郡外の久米郡の平姓原田氏、漆(間)姓菅納氏、垪和氏など。
- ^ ただし、家系図によれば良正の兄孝標の系統で、孝標 - 定義 - 輔方(善弘) - 宣資(在寛) - 忠資(時賢) - 忠俊(成賢) - 淳忠(茂成) - 清長(高成)と続いて、12代清長が播磨守となったのが始まりで、その子輔孝(公高)を家祖とする。
- ^ 長禄三年十二月十三日に備前国長船の住人左衛門尉藤原朝臣長船則光が作った刀剣銘に「於作州鷹取庄黒坂造 鷹取勘解由左衛門尉菅原朝臣泰佐打ス之」と見える。
- ^ "永正十五年七月一日公文鷹取弾正能佐" 『真言宗長法寺寄附状』、森 [2012]。"貞治四年(1365年)三月二十三日公文鷹取弾正能佐"とする本もあり。
- ^ 砥石城と並ぶ高取山城は高島が誤記・誤伝を重ねて高取山城と見なされたもの。落ち穂拾い - 高取山城
- ^ 大饗氏は土師家六姓の内と称し、天正十年三月秀吉備前滞留の際は大饗邸に滞在した。秀吉の右筆を務めた楠長諳(1520-1596)は、元は備前大饗氏。
- ^ 成宗自身も備中守娘と結婚して子を為している。鷹取氏は"備中守"の呼称を代々相承していたらしく、どの世代の備中守の娘かは不明。森 [2012]では文献状確認できる2代目であることから2代目備中守とする。
- ^ 戸川達安は喜八の甥にあたる。
出典
- ^ "知頼(修理進・内匠允・従五位下) 有子孫畧之子孫住美作國" 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集十一巻-菅原氏
- ^ a b 森俊弘『作州路23号』
- ^ 『古代氏族系譜集成』
- ^ 交代寄合シリーズ 戸川家
- ^ 平家年来の伺候人、伊賀国、伊勢国、近国に死残たる輩、北陸南海より抜々に来著ければ、云に及ばず。山陽、山陰、四国、九国に宗と聞る者共、阿波民部大輔成良が口状を以て、安芸守基盛の息男、左馬頭行盛執筆として、交名記して被催たり。先播磨国には津田四郎高基、美作には江見入道、豊田権頭 『源平盛衰記』 一谷城構事
- ^ 爰に美作国住人恵比入道守信、播磨国住人佐用党利季兼知を始として七百余騎、西の山の鼻より時を造つて懸ければ、源氏三方より被押囲て、軍忽に破て東を指て落行けり。『源平盛衰記』 行家与平氏室山合戦事
- ^ 「美作国には菅家の一族・江見・方賀・渋谷・南三郷」(『太平記』巻第七 船上合戦事)
- ^ a b 渡邊大門 「美作地域における奉公衆の研究」
- ^ 『美陽勇士伝』平瀬六郎右衛門の事、有元・新免が降人となった事
- ^ 日本拳法道連盟 豊前福光派古術連盟 風門館 - 豊前福光氏のこと
- ^ 『中央町の地名考』 - 旧村の地名 - 原田
- ^ 前田利家の系譜 - 古代及び中世氏族の系譜関係 | 古樹紀之房間
- ^ 『美作太平記』巻之二 菅家一統討ち死にの事
- ^ 『美作太平記』巻之九 有元家夜討ちの事
- ^ 森俊弘 [2012]
- ^ 森 [2012] 4頁
- ^ 朝倉尚『景徐周麟の文筆活動―― 延徳三年(2)――』
- ^ 朝倉尚 『禅林における艶詞文芸をめぐって--『蔭涼軒日録』における亀泉集証と月江寿桂 』鈴峯女子短期大学人文社会科学研究集報 57号 2010年
- ^ 「美作国の山城」編集委員会 『美作の城 改訂版』 津山市教育委員会 2011年 p.270
- ^ 畑和良 『落穂ひろい]』 - 淡相城
- ^ 粟井弘二 「作州史の流れと菅原系粟井氏の盛衰」 『家系研究』第47号 2009年4月 pp.102-114
- ^ 『東作誌』勝南郡豊国条
- ^ 『美作太平記』『美陽勇士伝』など
- ^ サラリーマン家庭出の菅首相…甲子園の3・8倍の土地持ち(社会) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース (日本語)
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