国鉄スハ32系客車
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国鉄スハ32系客車(こくてつスハ32けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道の前身である鉄道省が1929年(昭和4年)から製造した20 m級鋼製客車の形式群である。
- ^ 研究の詳細は鈴木貞「鐵道省鋼製客車の設計に就て」(社団法人日本機械学会『機械學會誌』第30巻 第128号 昭和2年12月 pp.627 - 696)、また「鋼製客車の設計計算に就て」(社団法人日本機械学会『機械學會誌』第35巻 第177号 昭和7年1月 pp.29 - 39)を参照。
- ^ a b 背刷りが合板張りの二重屋根車・丸屋根車の初期グループ(1933年度予算車)までは座席奥行きが背中合わせ1組950 mmの腰掛けを使用し蹴込部分をオハ31系から大幅に拡大した505 mm(同450 mm)としていたが、布張りとなった丸屋根中期グループ(1934年度予算車)以降は同1,000 mmの腰掛けとし、蹴込をオハ31系とあまり変わらない455 mmに縮小している。
- ^ TR71の改良型に当たる3軸イコライザー台車。
- ^ 岡田誠一「スハ32系客車のあゆみ(2軸ボギー客車) Part1」『鉄道ピクトリアル』2006年7月号、p.23
- ^ a b 岡田誠一「スハ32系客車のあゆみ(2軸ボギー客車) Part1」『鉄道ピクトリアル』2006年7月号、p.22
- ^ 展望デッキはその構造と使用目的から、一般に奥行きが通常の出入台より深く設計されており、1.3 m前後確保される。
- ^ 当時一般形の定義はまだない。
- ^ なお、樺太鉄道局向けとして製造されたグループは製造時期が1943年(昭和18年)と遅かったため、鉛蓄電池の仕様が変更されて単電池式となっており、台枠が戦前後期製造のオハ35系と同様にUF116に変更されている。
- ^ ダブルルーフあるいはレイルロード・ルーフともいう。
- ^ 丸屋根構造自体は、1920年代から私鉄電車などでの実用例が増えていた。
- ^ 妻壁の妻羽目と天井板の間の部分。その形状が髪飾りの櫛に似ていることに由来する。
- ^ 岡田誠一「スハ32系客車のあゆみ(2軸ボギー客車) Part1」『鉄道ピクトリアル』2006年7月号、p.26
- ^ のちに長形台枠でも強度に問題がないことが確認された。
- ^ 戦後の変遷は、星晃「1等展望車変遷記」『回想の旅客車』下、学研、2008年、pp.96 - 109による。
- ^ 列車にシャワー、内田大臣が発案『中外商業新報』昭和10年6月8日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p424 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 列車風呂は早々店じまい『東京朝日新聞』昭和10年9月21日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p425)
- ^ 欧亜国際連絡列車の運行 - びわ湖鉄道歴史研究会
- ^ 当時の九州島内の列車は門司を起点に山陽線と連絡する列車について連絡元列車を継承する番号が与えられていた。つまり、この列車は関門トンネル開通以前の特急1・2列車「富士」の連絡列車であり、一等車の連結が特に求められたものであった。
- ^ 毛布と枕は持ち込み、まず試運転『東京日日新聞』昭和6年1月25日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p445 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 13・14列車は三等車のみで、19・20列車は二・三等車でそれぞれ構成された当時を代表するビジネス夜行急行であり、通年乗車率が高く三等寝台車投入のモデルケースとして好適であった。
- ^ 京都 - 下関間にのみ1両連結された。
- ^ a b c d e のちの梅鉢車輌
- ^ スハネ31形式図(図面番号VC0435)による。
- ^ 仕切壁に取り付ける腰掛。
- ^ a b c d 「オハ35形の一族」上 p.158 1-17-2項および表1-31による。
- ^ 初代は戦災により1949年に廃車となっている。
- ^ 緩急車は車掌室側が後位になる。
- ^ 1941年の称号改正後に落成したため旧番号をもたない。
- ^ 2650形 2650 - 2655の6両中、唯一渡樺した2652以外の5両。元の車号順に869 - 873に改番されているが、改番の時期は不明である。
- ^ 5桁の数字のみで形式番号を割り当てる方式はすでに限界となっていて、1941年に車両称号規定の改正が行われることとなった。
- ^ マユ33形式図(図面番号VC0563)による。『スハ32800形の一族』上 p.181参照。
- ^ ただし単独で構内に留置されることがあるため手ブレーキは存置されている。
- ^ UF50の展望車用で、露台(展望デッキ)側出入台の設計が一部異なる。
- ^ 37040形の落成時にはスシ37850形(のちのスシ・マシ38形)が冷房を搭載して営業運転に供されていた。
- ^ 天皇と直接の血縁関係にある皇族。この時点では大正天皇の直宮つまり、昭和天皇の弟宮となる、秩父宮、高松宮、三笠宮を指す。
- ^ 鉄道友の会客車気動車研究会『日本の食堂車』ネコパブリッシング、2012年、p.24
- ^ スロハ37形式図(図面番号VC03098)による。『スハ32800形の一族』下 p.402参照
- ^ スハネ30・31の元々の割付はシートピッチ1,580 mm相当であり、元からの座席車であるオハ34 1 - 12(旧番スハ33980 - 33991)とは20 mmずつずれていく。差分を前位クロスシート(便所撤去側)で吸収しているためこの区画のみ極端に広くなった。
- ^ 当初は一部車両の(オハ)31850形への改形式と施工工場(1942年9月11日の改組で鉄道省直営工場は工機部と改称されたため、同日以降は施行工機部となる)が予定されていた。『スハ32800形の一族』下 pp.201 - 205の記述による。
- ^ 改造直前に廃車されたマロネフ37 9の代替に改造された。
- ^ a b c d e f g h 『スハ32800形の一族』下 該当車種の項。
- ^ 岡田誠一「スハ32系客車のあゆみ(2軸ボギー客車) Part1」『鉄道ピクトリアル』2006年7月号、p.35
- ^ オイ・オイネ・スヤとも平面図は『特別職用車』 p.45。それによると洗面所付きの区分寝台室2室、開放座席室、調理室、給仕用開放寝台などが備えられている。
- ^ 『特別職用車』 pp.24 - 27。
- ^ 軍名称はそのままである。
- ^ a b RP777 p.45
- ^ 13の図面(『特別職用車』 p.37)によると前部にシャワー室、寝台、調理室、後部に長手方向の簡易寝台が6区分12人分、さらに後ろに側引戸があり窓2つ分を扉にした形。
- ^ 『特別職用車』 p.13。
- ^ 「鉄道公報」には「マイロネ37 1」が種車と記載されているがこれは誤りである。存在したのはのちに14号御料車となるスイロネ37 1である。
- ^ スハ2650形式図(図面番号VC03091H)による。『スハ32800形の一族』下 p.411参照。
- ^ 星晃「車両称号規定の改正に伴う客車の改番について」、『鉄道ピクトリアル』「国鉄客車開発記1950」 2006年 p.77。
- ^ 『スハ32800形の一族』下 pp.17 - 18・63の各車の写真と記述による。『鉄道ピクトリアル』No.777 pp.45 - 46の記述とは若干異なる。
- ^ スハ32 866 - 868は欠番だった。
- ^ a b 捻出されたTR23台車はマニ36形の種車となるオロ35形などに振り替えられ、同形式が装着していたTR23D・Eがスロ54形に振り替えられている。
- ^ 種車はスハ32 2176・2178・2182・187・218・220・222・2239・2249・261・262・264・265・268・270・303・305・2306・310・311・336・338・2340・341・351・384・408・414・416・435・438・439・443・2459・2462・2472・2475・2476・2479・2484・2491・2495・2497・501・505・513 - 515・517 - 520・523・528・2529・2536・2539・2555・2569・2585・2588・2590 - 2592・598・602・608 - 610・613・633・635・637・645・653・2657・2658・663・2669・2673・2675・679・2686・2688・2689・2691・2692・2696・2697・2699・2706・708・713・740・751・752・755・757・763・766 - 768・776・777・779・780・782・783・786・788 - 790・800・802・808・813・871 - 2873・875。
- ^ 種車はスハ32 194・209・213・255・312・317・318・332・385・390・421・430・473・480・502・617・623・627・732・733・738・876。
- ^ 種車はスハフ32 2152・2179・2206・2220・228・231・232・2236・240・2251・2278・2280・2281・310・320・331・344・347・348。
- ^ a b 本改造により台車を振り替えられたマニ60形はマニ61形に改形式され、改造後の番号はマニ60形同様仕様および構造により区分されている。国鉄60系客車#郵便・荷物車参照。
- ^ 種車はスハ32 201・206・208・221・267・272・273・301・346・368・427・596・626・628・632・636・638・746・748・753・756・759。
- ^ 書類上では21 - 25が在籍し、改造直後に廃車されたとされるが、この番号になった実車が確認されておらず、実際は廃車されたスハ32形から台車を捻出しているものと思われる。
- ^ スハ54 2001は存在しなかった。
- ^ 岡田誠一「スハ32系客車のあゆみ(2軸ボギー客車) Part2」『鉄道ピクトリアル』2006年8月号、p.18
- ^ 当時まだ記号エがなかったため、ヤの記号を与えられていた
- ^ 岡田誠一「スハ32系客車のあゆみ(2軸ボギー客車) Part2」『鉄道ピクトリアル』2006年8月号、p.16
- ^ 二等座席は狭いスイロフ30形だった頃の一等室に詰めて設置したため、シートピッチ約1.3 mと60系並みに狭いものとなった。
- ^ 当時盛岡鉄道管理局長であった金沢寿一が、年配の団体客の多くが座席の上に正座している事にヒントを得たとの説もある。(「お座敷列車の魅力」『鉄道ファン』1981年11月号 No.247)
- ^ ただし自車では電気暖房を使用しないため番号に2000は追加されていない。
- ^ RP116 p.27。
- ^ 他に7・8がマロ38形から改造される予定だったが、結局改造はされず、欠番となった。
- ^ 徳川夢声の評だという。椎野剛「つばめ」『鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 5 国鉄客車ダイヤ改正 1950』電気車研究会、2004年、pp.76 - 79。
- ^ 旧イネは形式番号を40以上にしたが、本車は区分室が一等相当として元々ロネでもこの扱いを受けた。『国鉄客車1950』 p.120。
- ^ 外された冷房装置はスシ48 13 - 15の冷房改造に使用された
- ^ マユ33形式図(図面番号V03483)による。『スハ32800形の一族』下 p.437参照。
- ^ 2001 - 2003が存在したが、これはオハ35系に属する。
- ^ 過去に特別職用車のスヤ39 1(初代)(スヤ4)が存在したが、これはオハ31系に属する。
- ^ 『オハ35形の一族』下 pp.234 - 235, 写真8-59 - 63。
- ^ EF61形などが充当された。
- ^ 国有化後の形式番号はナハフ14070。
- ^ 「600mmの郷愁」『鉄道ピクトリアル』2006年7月号、p.3
- ^ 「600mmの郷愁」『鉄道ピクトリアル』2006年7月号、p.6
- ^ 「600mmの郷愁」『鉄道ピクトリアル』2006年7月号、p.5
- ^ 「600mmの郷愁」『鉄道ピクトリアル』2006年7月号、p.4
- ^ なお、車籍が残る車両としては、鶴見線で使われていたクモハ12052(1929年製)が最古。ただし、こちらは現在は営業運転には使われていない(東京総合車両センターにて保存)。
- ^ 貨車写真館015
- ^ 片上鉄道保存会_廃止後の動き
- ^ “展示車両の紹介”. 京都鉄道博物館. 2022年10月28日閲覧。 1階「プロムナード」でC62 26と連結展示
- ^ 交友社『鉄道ファン』1996年8月号 通巻424号 p.120
- ^ 交友社『鉄道ファン』1996年10月号 通巻426号 p.102 - 103
- ^ 藤田吾郎「食堂車の保存車・廃車体」 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2005年5月号 No.761 p30より
- ^ 『交通科学博物館50年史』交通科学博物館、2013年、p.12
- ^ 『交通科学博物館50年史』交通科学博物館、2013年、p.16
- ^ 藤田吾郎「旧型客車の基礎知識<第5回>3軸ボギー客車群」『レイルマガジン』2019年5月号、p.38
固有名詞の分類
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