国民党への易幟とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/07 08:10 UTC 版)
そのため方本仁は、広東省に逃れて国民党に易幟し、同年8月、江西宣撫使兼第11軍軍長等に任命された。翌月、方は北伐軍に従軍し、江西省攻略に貢献している。しかし南昌攻略の際に、方自ら説得して降伏させた3人の敵軍師長が蒋介石の命で処刑されたため、方はこれに怒り辞職してしまった。1927年(民国16年)春、蒋の招請に応じて復帰し、何成濬と共に国民政府を代表して、北京で開かれた南北和平会談に出席している。1928年(民国17年)2月、中央政治会議委員兼太原政務委員会委員に任命された。 1928年(民国17年)6月、張作霖爆殺事件が勃発すると、方本仁は国民政府代表として東北に向かい、張作霖の葬儀に出席した。以後、方は張学良を易幟させるために活動し、これを妨害しようとする日本側と激しい折衝も行っている。最終的に同年末に張学良は易幟し、方は東北政務委員会委員に任ぜられた。1929年(民国18年)3月、国民党3期1中全会で中央政治会議委員に補欠選任され、同年5月、湖北省政府民政庁庁長兼代理省政府主席に任命された。同年10月、軍事委員会委員長北平行営主任に起用され、1930年(民国19年)には国軍編遣委員会委員等に任ぜられた。1931年(民国20年)4月、軍事参議院上将参議に任命され、同年12月には国民党第4期中央執行委員に選出された。しかし蒋介石と意見が合わず、この年をもって方は下野した。 1932年(民国21年)以降の方本仁は実業家として活動し、武漢で長江飯店を合弁により経営した他、さらに2隻の船を所有して運輸事業も行ったとされる。また中国農工銀行常務董事(理事)、江南鉄路公司監察人等も務めた。日中戦争(抗日戦争)が勃発して武漢が陥落すると、方は親日政権参加を日本軍などから求められている。しかし方はこれを拒否し、黄州に僧侶として隠棲した。1949年(民国38年)、華中軍政長官白崇禧から民軍総指揮に任命されたが、方は就任を拒否、起義(反国民党蜂起)して中国人民解放軍に呼応している。1951年2月15日、天津で病没。享年72。
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