国共内戦での不振と金門での一矢
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「湯恩伯」の記事における「国共内戦での不振と金門での一矢」の解説
戦後、湯恩伯は上海で日本軍の降伏受諾事務を担当し、京滬衛戍司令兼第1戦区綏靖司令に任ぜられた。国共内戦が開始されると、陸軍副総司令兼南京衛戍司令官に昇進し、12万の兵力で蘇中解放区を攻撃している。1947年(民国36年)3月、第1兵団司令に任ぜられ山東省の解放区を攻撃した。しかし精鋭部隊である張霊甫率いる第74師を孟良崮の戦いで失うなど、またしても指揮で大失態を犯し、責任をとらされて解職処分を受けている。1948年(民国37年)春、徐州綏靖主任として復帰したが、淮海戦役で指揮下の軍を殲滅されてしまった。 1949年(民国38年)1月、湯恩伯は京滬杭警備総司令に任ぜられ、長江を盾にして首都防衛の任にあたる。このとき、浙江省政府主席の地位にあった陳儀から共産党への内応を密かに持ちかけられた。湯は直ちにこれを蔣介石に通報し、翌月に陳は罷免、逮捕されている。4月21日から中国人民解放軍が長江渡河を開始すると、呆気なく湯は防衛線を破られ、3日目には南京を失陥する。その後も人民解放軍の進撃には為す術も無く、5月下旬に湯は廈門へ逃走、そこで廈門綏靖総司令に改めて任ぜられた。9月、廈門も失陥し、大陸を追われて金門島に拠らざるを得なくなる。 10月24日、人民解放軍が金門島への上陸を開始すると、湯恩伯は蔣介石に金門島放棄の許可を電報で求めた。しかし蔣は許さず、軍事顧問の根本博を派遣し固守を命じる。湯は懸命に反撃し、空軍の援護と人民解放軍側の準備不足もあって、辛うじて金門の死守に成功した。ところが当初の金門放棄姿勢が蔣の不興を買い、台湾遷都後の湯は軍指揮権を剥奪され、僅かに総統府戦略顧問の地位しか与えられなかった。 1954年(民国43年)5月、湯恩伯は病気療養のために日本に渡ったが、6月19日にそのまま東京都新宿区で死去した。享年56(満54歳)。
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