国共内戦での不振と金門での一矢とは? わかりやすく解説

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国共内戦での不振と金門での一矢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:21 UTC 版)

湯恩伯」の記事における「国共内戦での不振と金門での一矢」の解説

戦後湯恩伯上海日本軍降伏受諾事務担当し、京滬衛戍司令第1戦区綏靖司令に任ぜられた。国共内戦開始されると、陸軍総司令南京衛戍司令官昇進し12兵力解放区攻撃している。1947年民国36年3月、第1兵団司令に任ぜられ山東省解放区攻撃した。しかし精鋭部隊である張霊甫率いる第74師を孟良崮の戦いで失うなど、またしても指揮大失態犯し責任をとらされて解職処分受けている。1948年民国37年)春、徐州綏靖主任として復帰したが、淮海戦役指揮下の軍を殲滅されてしまった。 1949年民国38年1月湯恩伯は京滬警備総司令に任ぜられ、長江を盾にして首都防衛の任にあたる。このとき、浙江省政府主席地位にあった陳儀から共産党への内応密かに持ちかけられた。湯は直ちにこれを蔣介石通報し翌月に陳は罷免逮捕されている。4月21日から中国人民解放軍長江渡河開始すると、呆気なく湯は防衛線を破られ3日目には南京失陥する。その後人民解放軍進撃には為す術も無く5月下旬に湯は廈門逃走、そこで廈門綏靖総司令改めて任ぜられた。9月廈門失陥し、大陸追われ金門島に拠らざるを得なくなる。 10月24日人民解放軍金門島の上陸を開始すると、湯恩伯蔣介石金門島放棄許可電報求めた。しかし蔣は許さず軍事顧問根本博派遣し固守命じる。湯は懸命に反撃し空軍援護人民解放軍側の準備不足もあって、辛うじて金門死守成功した。ところが当初金門放棄姿勢が蔣の不興を買い、台湾遷都後の湯は軍指揮権剥奪され僅かに総統府戦略顧問地位しか与えられなかった。 1954年民国43年5月湯恩伯病気療養のために日本渡ったが、6月19日そのまま東京都新宿区死去した享年56(満54歳)。

※この「国共内戦での不振と金門での一矢」の解説は、「湯恩伯」の解説の一部です。
「国共内戦での不振と金門での一矢」を含む「湯恩伯」の記事については、「湯恩伯」の概要を参照ください。

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