回漕問屋「福田屋」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 07:41 UTC 版)
星野家は、1831年(天保2年)から1911年(明治時代末)まで、福岡村の新河岸川で回漕問屋「福田屋」を営んでいた。福田屋は7代目星野仙蔵が回漕業を起こし、福岡河岸で回漕業と肥料・薪・農産物の仲買い商、船問屋として大いに繁栄し、明治の中頃に最盛期を迎えた。10代目星野仙蔵が鉄道誘致に尽力したことで家業を圧迫し、産業として廃れた。 明治初めの1870年頃に建てられた福田屋の建物は、現在、ふじみ野市福岡三丁目にある、福岡河岸記念館として保存、公開されており、往時の隆盛をしのぶことができる。現在残っているのは主要な建物の母屋・台所、離れ、文庫蔵の3棟のみだが、当時は十数棟の建物が築かれていた。特に10代目星野仙蔵が1900年(明治33年)頃に完成させた「離れ」は接客、社交の場として建てられた。当時珍しい木造3階建てで、郷土史家が「丸で城郭に見えた」と記すほど豪華だった。1909年(明治42年)の屋敷図では、10代目が館長を務めた福岡名信館の剣道場もみられる。 8代目や10代目星野仙蔵などに関連する古文書の「福田屋文書」が上福岡歴史民俗資料館に残されている。 川越城の「家老詰所」は、1873年に福田屋の分家に移設され、1987年まで分家の母屋として使用されていたものを再度移築されたもの。 子孫(星野真里の実家)は上福岡駅東口でタバコ屋を経営しており、埼玉県で一番売り上げがあるタバコ屋という。
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