呼び名と人物比定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 08:34 UTC 版)
『信長公記』には、平手政秀の働きで政略結婚が成立して、美濃の道三の娘が尾張の戦国大名・織田信秀の嫡男(信長)に嫁いだと書かれているが、その名前は書かれておらず、濃姫という名前も登場しない。 広く知られた『絵本太閤記』や『武将感状記』で、濃姫(のひめ)として登場していることから、この名が有名になったが、これは濃州つまり美濃国の高貴な女、美濃からきた姫、美濃姫を省略して濃姫と呼んだ、と考えるのが正しく、本名ではない。 名前に言及している書籍はわずかであるが、江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』では帰蝶/歸蝶(きちょう)であったとされ、同じく『武功夜話』では胡蝶(こちょう)であったとされる。帰蝶は胡蝶の誤読であるという説もある。 同じく『美濃国諸旧記』で、天文17年(1548年)に秀龍(道三)が稲葉山城を斎藤義龍に譲って出家して、(再び)道三と号して鷺山城に退き、翌年にこの城から古渡城の信長のもとに嫁いだために、鷺山殿(さぎやまどの)と呼ばれていたと書かれているが、これは当時の習慣に則したもので筋が通る。 信長の正室の称としては、於濃の方(おのうのかた)とも呼ばれるが、『絵本太閤記』等の通俗本の呼称である濃姫を元にするよりは、鷺山殿の称の方が由来は明確である。『美濃国諸旧記』では上総介信長の北の方(正室)となったとの記述もあるので、それに基づくと鷺山殿が信長の正室であったと考えることができる。 また後述するが、安土殿と呼ばれていた人物が濃姫と同一人物であるという最近の説もある。総見院で於鍋の方の隣に養華院として葬られている人物が濃姫であると断定するまでにはまだ検討の余地がある。
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