吉会鉄路経路問題との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/26 07:31 UTC 版)
「天図軽便鉄路」の記事における「吉会鉄路経路問題との関わり」の解説
財務赤字と累積債務の増加、自浄努力の出来ない経営状況を深刻視したのは、間島地域の利権確保の戦略的意義を認めていた日本政府であった。 当時、吉会鉄路の一部として建設された吉長鉄路に連絡するため1926年に吉林-敦化間の「吉敦鉄路」が着工、敦化-図們間の「敦図鉄路」が完成すれば全線開通する段階となっており、その後は吉敦鉄路を延長するのか、それとも天図軽便鉄路を延長するのかという問題を抱えていた。同一地域の連絡となるが、前者は南満州鉄道が建設主体になるのに対し、後者は天図軽便鉄路が建設主体になるという違いがあった。 両線は建設主体以外にも経路問題も有していた。日本海連絡線として天図軽便鉄路全体を活用して清津に至る南廻り経路と、一部を使用して羅津に至る北廻り経路が検討されていたのである。 延長問題については、1926年2月、天図軽便鉄路は延長案を提出、外務省の賛同を得たが、10月に朝鮮総督府鉄道局より吉敦鉄路延長案が提唱されている。南満州鉄道は、この問題が他線の敷設交渉に影響することを危惧し、また日本側が強い影響力を有する天図軽便鉄路延長案に賛成の意思を示した。 しかし天図軽便鉄路の赤字問題が浮上すると外務省が方針を転換、1927年に外務省は赤字体質を改善できない鉄道会社に延伸計画を委任することはできない、逆に南満州鉄道に委任すれば天図軽便鉄路自身の救済にもなると、吉敦鉄路延長案の採用を決定した。南満州鉄道も外務省の方針に同調、中国側も責任者である張作霖が吉敦鉄路延長案を支持したことから、同じく吉敦鉄路延長案を支持した。 経路問題については、南満州鉄道は数度にわたる調査を行い、1926年に北廻り経路の採用を決定した。しかし外務省は南廻り経路も完全に放棄するのでなく、経営危機の状況を改善する目的もあり天図軽便鉄路に改軌させることで対応することを主張したが、この際には延伸問題の解決が優先されこれ以上の進展はなかった。 1928年5月、吉敦鉄路延長案を前提に中国側との建設請負契約が成立、計画はまとまるかと思われたが、翌月に発生した張作霖爆殺事件により交渉は白紙化された。 再交渉を余儀なくされた日本政府は、同年9月には「天図鉄道に関する会議」が2回開催され、外務省・大蔵省・内閣拓殖局・朝鮮総督府・陸軍・海軍・南満州鉄道・東洋拓殖の各代表者が出席している。 会議では内閣拓殖局が南満州鉄道と協議の上作成された建設案が提示された。これは吉敦鉄路延長案を採用し南満州鉄道による建設とする。経路問題に関しては南廻り経路を採用し、その経路上に当たる天図軽便鉄路本線は南満州鉄道から資金援助を受け改軌。また日中合弁形式を維持するが、日本側の権利は南満洲太興から南満州鉄道が継承するとした。 これは計画を全て南満州鉄道に委託することで、延長問題、経路問題、さらには天図軽便鉄路の負債問題の解決を一気に図ったものである。南廻り経路の採用も北廻り経路が採用されれば沿線住民に動揺と失望が広がり、負債回収の手間になると考えてのことであった。 南満州鉄道自身は本来北廻り経路を強く主張しており、中国側も同様であったことから南廻り経路が採用されたことには大きな不安を訴えた、また中国側が日中合弁を嫌悪していたことを理解していたためこの案にはかなり懸念を示した。しかし最終的には具体的内容は南満州鉄道と中国当局との協議状況に従い最終的には閣議で決定する方針が確認され会議は終了した。
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