合戦開始に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 16:18 UTC 版)
播磨へ東進する毛利氏は、天正4年(1575年)4月から5月にかけては、上月城(現・兵庫県佐用郡佐用町)を前線にして姫路(現・兵庫県姫路市)へ兵を進めた。4月、海上からも室津(現・兵庫県たつの市)に上陸し、英賀(現・兵庫県姫路市)から姫路を目指した。前述の通り、英賀は播磨の一向宗門徒の中心地で、毛利勢はここにも軍事拠点を設けていた。この間、小早川隆景は備中笠岡(現・岡山県笠岡市)に進出して本陣をおき、甥の毛利氏当主・輝元は安芸三原(現・広島県三原市)に本営を構えた。 英賀を領する三木通秋は、家臣の三木清閑が小寺孝隆の妹婿であったことから、土器山の戦いで救援にかけつけるなど当初は孝隆に協力的であり、小寺に近い勢力と言える人物であった。しかし、通秋の領内には本願寺門徒衆(一向宗門徒衆)を多く抱える英賀御堂(あが みどう)があり、通秋自身も一向宗の熱心な門徒であったため、元亀元年(1570年)には石山合戦が始まると、顕如の檄文に呼応する形で挙兵、兵430人を畿内に派遣し、石山本願寺には3,000俵を送って支援をする形で、織田氏(織田信長)への対立姿勢を露わにした。これにより、播磨きっての親織田派であった小寺孝隆をはじめ、親織田に傾きつつあった赤松氏(赤松則房・赤松広秀)や、小寺氏(小寺政職)・別所氏ら播磨の周辺勢力とは疎遠になり始める。 天正5年(1576年)、毛利輝元が本願寺支援を決めたことで、「織田信長への対抗」という点での利害が一致したため、通秋は毛利氏と同盟し、毛利氏より派遣された小早川水軍(浦宗勝の軍勢)を領内に上陸させるのに協力した。
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