反乱と船の破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 07:31 UTC 版)
「バウンティ (帆船)」の記事における「反乱と船の破壊」の解説
詳細は「バウンティ号の反乱」を参照 1789年4月28日、タヒチの西約1,300海里 (2,400 km)の地点を航行中のバウンティ船内でクリスチャンを首謀者とする反乱が発生した。反乱者と乗組員の間では強い言葉の遣り取りや脅迫が交わされたが、ブライ以外の乗組員は殆ど抵抗せず、船は無血で奪取された。 反乱者たちはブライと彼に従った船員たちをカッターボートに乗せて追放した。船を追われたブライと部下たちは物資を求めてボートで30海里 (56 km) 離れたトフア(英語版)へ向かったが、現地住民の襲撃を受けて1名が殺され、さらなる逃亡を余儀なくされた。 ブライたちはその後、トフアから3,500海里 (6,500 km) 離れたオランダ人居留地のクパンを目指して航海を続けた。47日後、一行はトフアで殺された1名以外の死者を出すことなクパンに上陸を果たした。彼らの多くはその後、無事にイギリスに帰国を果たしている。 一方、反乱者たちはトゥブアイ島に向かい、そこに定住を試みた。しかし、先住民と抗争になり3か月後にタヒチに戻った。ブライが船を追放される際に同行しなかった者たちを含む16名の反乱者たちは、イギリス海軍に見つかって裁判にかけられることを恐れ、タヒチに留まった。 9月にタヒチ島に16人を上陸させた後、クリスチャンと他の8人の乗組員、6人のタヒチ人男性、および1人の乳児を持つ女性11人が、イギリス海軍から逃れることを期待してバウンティで出航した。クリスチャンの同行者のひとりによる記録によると、同行したタヒチ人の内、女性の多くは反乱者たちが出航する際に拉致したものだった。反乱者たちはイギリス海軍を警戒してフィジーとクック諸島には上陸せずに通過した。 1790年1月15日、クリスチャンたちはイギリス海軍の海図には載っていなかったピトケアン島に辿り着いた。同地に定住することが決定され、家畜やその他の物資がバウンティから降ろされた。船の発見と仲間の逃亡を防ぐため、1月23日にバウンティは現在のバウンティ湾(英語版)で焼却された。
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