バウンティ号の反乱
バウンティ号の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/10 20:06 UTC 版)
「ピトケアン諸島の歴史」の記事における「バウンティ号の反乱」の解説
「バウンティ号の反乱」も参照 18世紀の終わり頃、イギリスは西インド諸島において砂糖栽培のプランテーションを経営していた。プランテーションというのは商品作物の栽培のみに特化していて、食料となる作物は他からの輸入に頼る場合が多いが、西インド諸島の場合も同じで、その食料は北アメリカのイギリス植民地からの輸入に頼っていた。1775年にアメリカ独立戦争がはじまると、西インド諸島植民地の生命線とも言える食糧補給路が絶たれてしまったため、困ったイギリスは、ジェームズ・クックが南太平洋のタヒチで見たというパンノキをタヒチから持ってきて西インドの植民地に植えようと考えた。気候が似ているから環境に適応できると考えたのであろう。 かくして、この重要なパンノキ捕獲作戦の任を与えられたのが、ウィリアム・ブライ艦長率いる英国海軍の軍艦バウンティ号であった。バウンティ号はイギリスを出航した後、地球を半周して1789年にタヒチにたどり着いた。当時としてはかなりの大航海だったようである。タヒチでパンノキを採取した後、バウンティ号はすみやかに西インドへ向かうが、その帰り道で事件が起こる。 何故バウンティ号の反乱が起こったかはよく判っていない。乗員の飲み水よりもパンノキに与える水を優先した、水兵に対して高圧的すぎた、など、映画や小説などではとかく船長が悪者にされがちであるが、脚色と見るべきであろう。実際、船長は軍事裁判にかけられたが特にお咎めを受けていない。 反乱が成功した後に反乱水兵達はタヒチに戻っていることから、タヒチの居心地が非常に良かったのかもしれない。原因については現在では推測することしかできない。ともかく事実としては、帰路に水兵による反乱が起こり、そして成功したということである。敗れた艦長は命を取られることは無かったが、反乱で艦長に味方した乗組員十数名と共に小さなボートに乗せられ、太平洋のど真ん中で放り出されてしまった。ここまでが有名なバウンティ号の反乱である。
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