南方町の興福寺とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 南方町の興福寺の意味・解説 

南方町の興福寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 17:42 UTC 版)

大武丸」の記事における「南方町の興福寺」の解説

宮城県登米市南方町本郷大嶽興福寺は、大武丸の首を埋めた地と伝えられている。人々悩ます凶賊大武丸討伐赴いた田村将軍だったが、想像以上手ごわい敵の抵抗遭い苦戦余儀なくされる田村将軍が大悲観音に祈ると、御台所鈴鹿御前気持ち通じた。彼女は門を開けて将軍招きいれ、大武丸毒酒持って眠らせた。その隙に大武丸の首を取った田村将軍は、賊がることのないよう、首を埋めたの上観音梵閣を建て、それが興福寺の基となったという。この伝説の起源『長谷寺霊験記』下 第5「田村将軍得馬勝軍建立新長谷寺事」で三迫新長谷寺として東北田村語り組み込まれ『風土記御用書出』の「華足寺書上」に所収される「田村将軍様奥州七ヶ所観音建立由来之事」に三迫大嶽観音として名前が挙がったことで奥州七観音数えられ奥浄瑠璃『田村三代記』佐沼郷の大嶽山大嶽丸の手埋めた語られたことで、江戸時代以降史実かけ離れた地域伝承として定着したのである南方町にはそのほか大武丸を鬼として描いた伝説もある。かつて柳沢区角欠には「角掛」というがあった。田村麻呂大岳山追われ大武丸はこの地まで逃げてきたが、に角を引っ掛けたせいでもげてしまい、戦意失って降参したという。 また大岳山西麓細川との境には「まな板」という地名があった。これは大武丸人畜取り喰らったときの調理場であったという。

※この「南方町の興福寺」の解説は、「大武丸」の解説の一部です。
「南方町の興福寺」を含む「大武丸」の記事については、「大武丸」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「南方町の興福寺」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「南方町の興福寺」の関連用語

1
6% |||||

南方町の興福寺のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



南方町の興福寺のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大武丸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS