千代野伝説
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『伝燈録』を始めとして、無外如大の初名を千代野(千代能)とする伝承は多いが、古い史料では確認できない。西山美香は、室町時代末期に成立した『大徳寺夜話』に無外如大と千代野が別々に収録されていることから、この頃までは別人として認識されていたとしている。また山家は、元々は美濃に伝わっていた千代野伝説が、15世紀中頃に無外如大の伝承に取り込まれたのであろうとしている。 美濃の千代野伝説は、東福寺の僧・大極の日記『碧山日録』に記されている。大極は、美濃国関にある大雄寺に居た時に次のような話を聞いたと記している。 大雄寺から西2里に千代奴池がある。そこにかつて高徳の尼が庵を構え、千代という奴が仕えていた。ある時、千代が水を汲もうとしたところ、杓の底が抜け、それを機に千代は悟りを得た。それゆえ千代奴池と呼ばれた。 — 『碧山日録』寛正2年(1461年)12月13日条 徳田和夫や米田真理子は、この伝承は奈良絵本などに見られる説話と類似しており、その成立は室町末期(14世紀末)とみられ、熊野信仰圏で発生したとしている。山家は、宝慈院に美濃紙を扱う商人が出入りしていた事、あるいは開祖を無外如大とする関市の松見寺に千代野伝説が現在も伝承しているが、その一帯が臨済宗相国寺の所領であった事などから、15世紀半ばごろに美濃の千代野伝説が無外如大の伝承に取り込まれたと推測している。 この逸話は白隠の禅画の題材にもなっており「千代のふがたのみし桶の底ぬけてみづたまらねば月もやどらず」の賛が詠まれている。またこの伝承は、鎌倉市の海蔵寺の底脱の井にも見られるが、永井晋は、江戸時代の称名寺の史料に海蔵寺の開祖は無着(安達千代野)と記されており、千代野伝説は安達千代野伝承とも混同されたとする。
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