北近江雨森氏とは? わかりやすく解説

北近江雨森氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/22 13:54 UTC 版)

雨森氏」の記事における「北近江雨森氏」の解説

藤原高藤末裔藤原高良三男良高を祖とする。磯野氏、赤尾氏井口氏とあわせて湖北四家として知られ室町時代初頭には足利義満の命で後小松天皇武者所となる。京極氏守護職として赴任すると、これに仕えるようになるその後室町時代後期から戦国時代には近江浅井氏に従う。浅井家にあって雨森清貞海北綱親赤尾清綱あわせて海赤の三将と呼ばれた浅井氏滅亡後各地離散している。良高の末裔には、「雨森芳州家」、「出雲雨森氏」、「土佐雨森氏」、「雨森良意家」などがある。 雨森芳洲家(対馬藩朱子学者木門十哲一人雨森芳洲出た家。朱子学者であった芳州朝鮮ひいきであったため、望んで朝鮮半島窓口である対馬藩側用人となる。 出雲雨森氏松江藩浅井家滅亡後に、出雲松平家仕えた家。 土佐雨森氏土佐藩浅井家滅亡後に、土佐山内家に仕えた家。 土佐山内藩での雨森家の祖は雨森氏康(九太夫)で雨森氏元祖雨森三左衛門良治13良友3男菊若の末である。山内一豊土佐入国1600年)に当たり、家臣増強措置が採られ弟君匠作(康豊)様のご推薦採用され臣従して入国した600石、旗奉公島原の乱土佐藩代表して陣頭指揮し、敵弾を受け重傷し、土佐送還柏島沖で戦死柏島高知市薫的神社裏に墓地)。 氏康の孫(3兄弟)の時、氏春(2男)氏行(3男)の2家に分割され両家相互交流しながら土佐明治時代まで続いた雨森恒は分家氏行の直系系図次の通りである。氏行 - 氏紹 - 喜十郎 - 氏利 - 氏直 - 氏治 - 栄 - 治夫 - 恒 - (要) 氏康の分家の祖氏行(七三郎・儀右衛門)は、山田おあんの夫である。山田去暦の娘(山田おあん)が雨森氏行(儀右衛門)に嫁し、その(おあん)の語る内容記録したのであるおあむ物語』は、中世文学として著名。また幕末土佐藩迅衝隊山田平左衛門山田去暦の子孫である。 雨森良意家(京師雨森良意を屋号とする医家。元は御所御殿医であったが、良意の開発した無二膏の評判あまりにも高く、その製造注力するため、御殿医辞す無二膏は古典落語演目松山鏡二十四孝)の中で何につけてもよく効くもののたとえとして出てくる。

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