劉備軍の主将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 00:18 UTC 版)
建安16年(211年)、劉備が劉璋に招かれて益州入りした(劉備の入蜀)。建安17年(212年)、劉備が法正らと謀って益州攻略を企てると、張飛は諸葛亮・趙雲・劉封らと共に援軍として益州に攻め込み、手分けして郡県を平定した。 江州では巴郡太守の厳顔を生け捕りにした。このとき、張飛は自身が大軍でやってきたのに、厳顔が少数で抗い、降伏しなかったことに腹を立て、厳顔を詰問した。厳顔は「お前達は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。我が州には断頭将軍(首をはねられる将軍)はいても、降伏する将軍はおらぬ」と張飛を面罵した。腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに「匹夫め、さっさと斬れ!怒るだけ無駄だ」といったので、張飛は厳顔を見事だと思い彼を釈放し、以後は賓客として扱った。 張飛は劉璋軍との全ての戦いで勝利し、成都で劉備と落ち合った。劉備は益州奪取における張飛の功績を評価し、諸葛亮・法正・関羽と同等に金五百斤・銀千斤・五千万両・綿千匹の褒賞を与えた。張飛は巴西太守に任じられた。 建安20年(215年)、曹操は漢中の張魯と戦って降伏させると、配下の夏侯淵と張郃に漢中を守備させた。張郃は巴東、巴西に攻め込みその住民を漢中に移住させた。その後さらに渠宕・蒙頭・蕩石に軍を進めたところ張飛に拒まれ、張飛は、張郃の軍と50日あまり対峙した後、精鋭の1万人ほどを率い山道の隘路を利用し、迎え撃つ作戦を立てた。張郃は狭い山道の中で軍が前後で間延びしたために各個撃破され、たった数十人の部下と共に脱出する羽目になった。張飛は張郃の軍を撃退することに成功し、これにより巴の地は安寧を取り戻した。 建安22年(217年)、張飛は劉備の漢中攻略戦に従軍し、下弁方面での作戦に馬超・呉蘭らと共に参加したが、曹洪・曹休らに阻まれ、目立った戦果を挙げることなく撤退した(『三国志』魏志「武帝紀」及び「諸夏侯曹伝」)。 建安24年(219年)春、劉備が漢中を攻略すると、成都に政庁を置くことにしたため、前線の漢中の守備を誰に任すべきかということになった。周囲は張飛が任されるものと思い、張飛自身もそう考えていた。しかし劉備は魏延を抜擢した。盧弼によれば、張飛はその暴虐な性格によって兵卒から嫌われていたので、漢中の守備から外されたのだという。 同年秋、張飛は他の群臣達と共に劉備を漢中王に推挙した。劉備が漢中王になると、張飛は右将軍・仮節に任命された。
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