創立100周年後 (2000-)
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「クルブ・オリンピア」の記事における「創立100周年後 (2000-)」の解説
2002年7月25日にはクラブ創設100周年を迎え、この年にはコパ・リベルタドーレスで3回目の優勝を果たした。1次ラウンドでオンセ・カルダス(コロンビア)とCDウニベルシダ・カトリカ(チリ)を破り、2次ラウンドではCDコブレロア(チリ)を破った。準々決勝ではボカ・ジュニアーズを、準決勝ではグレミオFBPA(ブラジル)を破った。決勝ではADサンカエターノ(ブラジル)と対戦し、2試合合計2-2となって決着はPK戦に持ち込まれたが、ネリー・プンピード監督率いるチームはPK戦に4-2で勝利して優勝を決めた。基本となるスタメンはキーパーがリカルド・タバレッリ、ディフェンダーがネストル・イサーシ、フリオ・セサル・カセレス、ネルソン・セラージャ、エンリケ・ダ・シウバ、ミッドフィールダーがセルヒオ・オルテマン、ビクトル・キンターナ、フリオ・エンシーソ、ガストン・コルドバ、フォワードがミゲル・ベニテス、リチャルト・バエス(大会後半はエルナン・ロドリゴ・ロペス)だった。年末にはインターコンチネンタルカップに出場したが、ルイス・フィーゴやジネディーヌ・ジダンやロナウドなどを擁して銀河系軍団(ロス・ガラクティコス)と謳われたレアル・マドリード(スペイン)に0-2で敗れた。2003年にはレコパ・スダメリカーナに出場し、コパ・スダメリカーナ王者のCAサン・ロレンソ(アルゼンチン)に2-0で勝利して優勝した。このように2002年から2003年にかけては国際大会で成功を収めたが、その後は深刻なスランプに陥った。何年も続けてコパ・リベルタドーレスの出場権を逃し、国内リーグでは2000年シーズンの優勝を最後に10年以上も優勝から遠ざかった。監督が就任しては去ったが、ほとんどの監督はクラブに少しも名声をもたらさなかった。 アペルトゥーラ2007に先立ってパラグアイの英雄的存在であるホセ・カルドーソが監督に就任したが、リーグ優勝を果たせず、クラウスーラ2007開幕前にはかつてオリンピアのスター選手だったアリシオ・ソラリンデが監督に就任した。ソラリンデ監督指揮下の成績は悪くなかったが、シーズン中にカルロス・ハラ・サギエール監督に交代した。サギエール監督はかつてセロ・ポルテーニョの選手であり、セロ・ポルテーニョのファンであることを認めたために論争を呼んだ。クラウスーラではリベルタとセロ・ポルテーニョに次ぐ3位に終わり、2007年シーズンの通算成績では4位だったが、コパ・スダメリカーナの出場権を獲得して5年ぶりに南米カップ戦の舞台に復帰することになった。2010年末に行なわれた会長選挙にはマルセロ・レカナーテとエドゥアルド・デルマスが立候補し、レカナーテが勝利して会長に就任した。 2011年にはクラブの経営陣同様に選手や監督が大きく入れ替わり、新時代の到来を予感させた。アペルトゥーラ2011では開幕から7連勝を達成し、わずか3ヶ月で主要なサポーター集団のメンバー数が3倍に増加した。しかしレカナーテ会長はプンピード監督と何人かの選手を「ピッチ上で最大限の努力をしていない」と非難したため、内部対立が最終戦までくすぶり、プンピード監督が辞任してチームは2位に終わった。クラウスーラ2011では他クラブのファンからオリンピア贔屓の判定が指摘されて議論となった。中心選手の何人かを負傷で欠き、美しいサッカーをするチームではなかったものの、フリーキックから何度も得点したことが功を奏し、最終節までもつれたセロ・ポルテーニョとの優勝争いを制した。もっとも安定した戦いを見せて勝ち点46を獲得し、11年ぶり39回目の優勝を果たした。2012年にはコパ・リベルタドーレスとコパ・スダメリカーナにパラグアイの1枠目として出場した。
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