前九年の役と後三年の役とは? わかりやすく解説

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前九年の役と後三年の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 01:06 UTC 版)

秋田県」の記事における「前九年の役と後三年の役」の解説

中央の律令政治衰えとともに私有地占領次第増え農民は有力豪族保護求めるようになり、蝦夷地各所には豪族中心とする武士の集まりができた。豪族は更に、重要地点に分家配して勢力を拡げて団結強固にした。その中の有力だったものが陸奥安倍氏出羽清原氏である。 北上川中流以北勢力広げていた安部氏朝廷対す貢租・徴役を怠り横暴な態度であるというので朝廷討伐行った。これが前九年の役永承6年1051年) - 康平5年1062年))である。しかし、当時陸奥守秋田城介の力では討伐ができず、新興武士であった源頼義陸奥守として向けられ七年以上にわたり戦い繰り広げた。頼義も自軍のみで討伐できずに横手付近に根拠をおいた豪族清原光頼臣下の礼の形を取り参戦依頼した。光頼は弟の武則大将とする一万余の兵を出し遂に討伐成功した源頼義義家兵力はわずか三千であったが、この清原氏出した兵力だけでもその武力伺い得る。 しかしこの後武則の孫の代にいたって一族争い起こり、家衡が出羽国沼柵現在の横手市雄物川町沼館)に立てこもる。家衡はここを源義家攻められ金沢柵横手市金沢中野)に移ったが、遂に敗れた。これが後三年の役永保3年1083年) - 応徳4年/寛治元年1087年))である。この戦の後に、清衡が奥州藤原氏として栄えた

※この「前九年の役と後三年の役」の解説は、「秋田県」の解説の一部です。
「前九年の役と後三年の役」を含む「秋田県」の記事については、「秋田県」の概要を参照ください。

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