別伝・虚伝
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近藤瓶城や小宮山綏介は、上の伝とあわせて、(義周は嫡派ではなく)嫡派は、最初、四日市塩物河岸に住み、その後、小舟町に移った、塩物店の三浦屋庄左衛門、三浦半三郎などという者、という別伝を紹介したが、小宮山が別伝の出所とした『南卜庵筆記』の話の出所は日夏繁高の話(後伝)であるし、小舟町の三浦屋庄左衛門については、葉山の新善光寺の阿弥陀三尊立像の台座に「江戸小船町三浦氏/池田庄右衛門」とあって、小舟町の三浦屋庄右衛門は池田氏であることが知られている。 北村包直『三浦大介及三浦党』には、「三浦(出口)高信」について「出口次郎左衛門尉と称し」、「其の弟は僧昌白」で、「高信の嫡子五郎左衛門尉茂忠」が「領三浦三崎を知行し、三浦に複姓」した、「三浦五郎太信泰(茂忠の一族)は、北条家に仕へて、戦功多くして、元亀二年九月逝去。其の嫡男勘解由世泰も、亦北条家の録を食み」世安家の先祖になった、「三浦五郎左衛門義周」について、「紀藩三浦氏の支族にて、有徳公の近侍と為った」などの伝があるが、内海延吉『三崎郷土史考』に、「『三浦大介』『三浦大介及三浦党』『湘南半島』の著者北村包直氏は、(…)三浦史の権威として定評が高かった。著者の初めの二冊は、三浦氏に取材した創作であるが、素材が素材でけに(ママ)実説と誤解されがちで、其の点 村井弦斎の『桜の御所』と同じである」と指摘がある。三浦の地誌や三浦氏に関する書籍には、北村の著書の内容を実説と誤解して引用している例がいくつかある。 鈴木かほる『史料が語る向井水軍とその周辺』に、天正18年の小田原合戦のとき、西伊豆の安良里砦に梶原備前守景宗・三浦茂信が配されたとあり、倉員正江「北条五代記における関東戦国時代評をめぐって」はこれを引用し、「この砦を徳川水軍本多重次・向井政綱に攻められ、茂信は討死したかとされている」と記しているが、『北条五代記』および『相州三浦住三浦助伝記』によれば、浄心の父・三浦茂信は天正5年(1577年)に没(病没)しており、『北条五代記』によれば浄心自身は小田原城に籠城していたことが確からしい。
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