再会と出産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/06 01:24 UTC 版)
1913年、33歳のイーダはイタリア社会党の党機関紙『アヴァンティ』の編集部に広告を載せたいとして訪れ、そこでムッソリーニと再会した。帰国後のムッソリーニはイタリア社会党の急進派や若手党員を率いて指導部を刷新し、ドゥーチェ(指導者)の渾名で呼ばれる程の人物になり、『アヴァンティ』の編集長を務めていた。再会してすぐに両者は愛し合う間柄になり、世界大戦の最中である1915年にムッソリーニの長男を出産、子供は夫の名と合わせてベニート・アルビーノ(Benito Albino)と名付けられた。 この頃、社会主義から民族主義へ思想の軸足を移したムッソリーニはチロルなど未回収地の併合を主張して参戦論を説き、社会党を除名されていた。さらにイタリアが大戦に参戦すると責任を果たすべく軍に志願するなど人生の大きな局面を迎えていた。 出征するムッソリーニにイーダは結婚を求めたが拒まれ、長男もダルセル家のベニート・アルビーノ・ダルセル(Benito Albino Dalser)として育てられた(1914年に求めに応じて婚姻したとする説もある)。1915年12月、ムッソリーニは教師時代の教え子で同郷(プレダッピオ)の生まれであるラケーレ・グイーディと結婚した。イーダに2重にショックを与えたのは、ラケーレが1910年にフォルリでムッソリーニの長女エッダを生んでいた事だった。私生活で多くの女性関係を持ち、その事を隠す考えすらなかったムッソリーニにとって、イーダは1人の女性でしかなかった。だがイーダの心は深く傷付き、次第に心を病んでいった。
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