全国的人気を獲得
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1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画『のど自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演した。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面ではあるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚を売り上げ(当時の史上最高記録)国民的な認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は、幼少期のひばりを代表する映像として現在も目にする機会が多い。 1950年、川田晴久とともに第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに2人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなった。 1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任した。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とした。 1952年映画『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』が当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。 1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周囲もそう呼ぶようになった。1954年7月、正式に契約していなかった松竹から、初代中村錦之助と一緒に、映画3本で1000万円と破格の条件で東映と映画出演の専属契約を結ぶ。契約時に田岡一雄が同席し凄んだ。この交渉時で子どもながら気丈なひばりに将来性を予見した岡田茂(のち東映社長)は、ほぼ一回り年下のひばりの世話係をしながら、歌の実演や地方興行などと撮影のスケジュール調整をやりつつ、ひばり作品の量産体制に入った。中村錦之助と映画「ひよどり草紙」で共演。二人が組んだとき、岡田は「これはいける」とピンときた。東映のツキ初めはここであった。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。この後、新人男優がひばりの相手役となることは、大スターへの登竜門のように言われた。錦之助とひばりは、共演後にたちまち恋仲となり周囲が猛反対した。それでも別れないため田岡一雄が困り果て、岡田茂に頼み、岡田が諄々とふたりを諭して別れさせた。
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