先駆的トーキーシステムの開発とは? わかりやすく解説

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先駆的トーキーシステムの開発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 01:31 UTC 版)

写真化学研究所」の記事における「先駆的トーキーシステムの開発」の解説

1929年昭和4年)、国際活映巣鴨撮影所撮影部および松竹蒲田撮影所現像出身増谷麟植村甲午郎実弟植村泰二らが現像トーキー光学録音機材研究実際撮影現場での録音請負目的として、1932年昭和7年6月1日東京府北多摩郡砧村現在の東京都世田谷区成城)に設立したのが、この「写真化学研究所」である。 当時日本の映画界はまだサイレント映画全盛時代であり、マキノ・プロダクション牧野省三ディスク式トーキー研究重ね長男マキノ正博監督同社トーキー第1作戻橋』を公開したのが同年であり、松竹蒲田本格的トーキー第1作マダムと女房』を製作・公開したのはその2年後の1931年昭和6年)であり、当初録音請負受注もままならなかった。そこで1932年昭和7年10月25日研究所内に2つのトーキーステージを持つレンタルスタジオ現在の東宝スタジオ一部)を建設トーキーの製作に意欲のある映画製作者呼び込んだ。しかし、提携していた日活契約破棄しスタジオ使用する予定なくなってしまい、自社での映画製作乗り出すこととなった。 翌1933年昭和8年)、新興キネマ飛び出してインディペンデント・プロダクション「音画芸術研究所」を設立し、『河向ふの青春』を監督・プロデュースした映画監督木村荘十二引き込み、また森岩雄招いて同社劇映画自社製作開始する。それが、活動弁士出身徳川夢声主演にした木村監督のミュージカル・コメディ『音楽喜劇ほろよひ人生』である。これが同社第1作となり、東和商事映画部(のちの東宝東和)の配給同年8月10日公開された。第2作おなじく木村監督の『純情の都』で、同作同年11月23日公開されたのちの12月5日には、「録音現像」を除く製作部門を子会社として分離、「株式会社ピー・シー・エル映画製作所」を設立製作部長に就任木村はこの新会社メイン監督となってゆく。 「ピー・シー・エル映画製作所」はやがて自主配給始め冒頭の「P.C.L.ロゴとともに製作・配給 ピー・シー・エル映画製作所 録音現像 冩眞化学研究所クレジットされることとなる。当時としてはハイカラ喜劇オペレッタ映画多くP.C.L.は「ポーク・カツレツ・ラード揚げ」の略だと評された。 当時同社工作部長は、1915年大正4年)に邦文タイプライター和文タイプライター)を発明した杉本京太で、杉本同社で、1936年昭和11年)には「国産小型トーキー映写機」を完成した杉本このころ植村社長兼務する光学録音機メーカー日本光音工業」の取締役技師長にも就任している。また同年早稲田大学卒業した、のちのソニー創業者井深大入社し植村頼んで日本光音工業移籍している。

※この「先駆的トーキーシステムの開発」の解説は、「写真化学研究所」の解説の一部です。
「先駆的トーキーシステムの開発」を含む「写真化学研究所」の記事については、「写真化学研究所」の概要を参照ください。

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