先駆的トーキーシステムの開発
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「写真化学研究所」の記事における「先駆的トーキーシステムの開発」の解説
1929年(昭和4年)、国際活映巣鴨撮影所撮影部および松竹蒲田撮影所現像部出身の増谷麟、植村甲午郎の実弟・植村泰二らが現像とトーキーの光学録音の機材の研究、実際の撮影現場での録音の請負を目的として、1932年(昭和7年)6月1日に東京府北多摩郡砧村(現在の東京都世田谷区成城)に設立したのが、この「写真化学研究所」である。 当時の日本の映画界はまだサイレント映画の全盛時代であり、マキノ・プロダクションの牧野省三がディスク式トーキーの研究を重ね、長男のマキノ正博を監督に同社のトーキー第1作『戻橋』を公開したのが同年であり、松竹蒲田が本格的トーキー第1作『マダムと女房』を製作・公開したのはその2年後の1931年(昭和6年)であり、当初は録音の請負受注もままならなかった。そこで1932年(昭和7年)10月25日、研究所内に2つのトーキーステージを持つレンタルスタジオ(現在の東宝スタジオの一部)を建設、トーキーの製作に意欲のある映画製作者を呼び込んだ。しかし、提携していた日活が契約を破棄し、スタジオを使用する予定がなくなってしまい、自社での映画製作に乗り出すこととなった。 翌1933年(昭和8年)、新興キネマを飛び出してインディペンデント・プロダクション「音画芸術研究所」を設立し、『河向ふの青春』を監督・プロデュースした映画監督の木村荘十二を引き込み、また森岩雄を招いて、同社は劇映画の自社製作を開始する。それが、活動弁士出身の徳川夢声を主演にした木村監督のミュージカル・コメディ『音楽喜劇ほろよひ人生』である。これが同社の第1作となり、東和商事映画部(のちの東宝東和)の配給で同年8月10日に公開された。第2作はおなじく木村監督の『純情の都』で、同作が同年11月23日公開されたのちの12月5日には、「録音・現像」を除く製作部門を子会社として分離、「株式会社ピー・シー・エル映画製作所」を設立、森は製作部長に就任、木村はこの新会社のメイン監督となってゆく。 「ピー・シー・エル映画製作所」はやがて自主配給を始め、冒頭の「P.C.L.ロゴ」とともに、 製作・配給 ピー・シー・エル映画製作所 録音・現像 冩眞化学研究所 とクレジットされることとなる。当時としてはハイカラな喜劇やオペレッタの映画が多く、P.C.L.は「ポーク・カツレツ・ラード揚げ」の略だと評された。 当時の同社の工作部長は、1915年(大正4年)に邦文タイプライター(和文タイプライター)を発明した杉本京太で、杉本は同社で、1936年(昭和11年)には「国産小型トーキー映写機」を完成した。杉本はこのころ、植村が社長を兼務する光学録音機械メーカー「日本光音工業」の取締役技師長にも就任している。また同年、早稲田大学を卒業した、のちのソニーの創業者井深大が入社し、植村に頼んで日本光音工業に移籍している。
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